長浜支部第46回春の歩こう会
初夏に訪ねる紅葉の名所!
令和7年5月23日(金) 参加者14名
(顔の部分にマウスポインタを当てると名前が出ます 敬称略)
朱雀門前にて集合写真
後列左から:磯田 智、小林貞人、北村柾美、柴田喜三、大村元孝、
大岡弘和、森川栄壽、矢野彰毎、中嶋 清
前列左から:岩田正博、直井一博、伊藤冨秋、三田村和典、馬場智章
14名の出席で歩こう会を実施。
9時半に京都駅中央改札口に集合し、先ずは約1q歩いて京阪七条駅に行き、
京阪電車で出町柳駅へ、そこから叡山鉄道で修学院駅まで移動、
駅の近くの広場で幹事の直井さんから歩こう会の計画概要
(ルート、訪問先、計画の詩仙堂は先方のイベントの都合で入場不可に、
代替え地として圓光寺を昼食時間と場所など)の説明を受けた後、
支部長の小林さんからご挨拶がありました。
最初の訪問先である曼殊院を目指して上り坂を約30分歩きました。
@曼殊院(まんしゅいん)
8世紀に伝教大師(=天台宗の宗祖「最澄」。滋賀県生まれ)によって比叡山の一坊として創建。
15世紀に門跡寺院となり、1656年に良尚法親王によって現在地(左京区一乗寺竹の内町)に移転。
この方の父は八条宮智仁親王で、桂離宮を作った人であることから「小さな桂離宮」とも呼ばれる。
国宝の黄不動(=不動明王)をはじめ、数多くの文化財(書院や茶室、枯山水庭園、絵画等)所有。
孔雀の間の絵は岸駒(がんく)の作品で、(長浜)大通寺の「古梅図」や
(長浜)宮司町に残る曳山の楽屋襖「松虎図」も岸駒作。
昼食は曼殊院から(2番目訪問先の)圓光寺への途中の公園で(約30分)。
A圓光寺(えんこうじ)
1601年徳川家康は国内教学の発展を図る為、下野(しもつけ)足利学校第9代学頭・三要元佶(げんきつ)
禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。
孔子家語(けご)・貞観政要(せいよう)など多くの書物を刊行、当寺には出版に使用された
日本最古の木活字が現存(約5万個。重文)しており、我国出版文化史上特筆すべき寺院。
他に寺内には本尊千手観世音菩薩坐像(伝運慶作)、雨竹風竹図屏風六曲一双(円山応挙作。重文)他がある。
山門を入ると枯山水「奔龍庭(ほんりゅうてい)」(=渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、
天空を自在に奔る龍を石組で表した平成の枯山水)、更に中門を抜けると苔と青紅葉(秋には紅葉に。敷紅葉も)
の美しい「十牛之庭」(池泉回遊式庭園)が、そして真直ぐ天に伸びた竹林も。
裏山には当山開基徳川家康公の歯を埋葬した東照宮があり、墓地には村山たか女
(船橋聖一著「花の生涯」のヒロインで、大老井伊直弼が彦根城の「埋木舎」で
不遇な部屋住み生活をしていた頃の愛妾とも云われる)の墓も。
B金福寺(こんぷくじ)
佛日山金福寺は864年安恵僧都(あんねそうず)が慈覚大師・円仁の遺志により建立。
また当寺は松尾芭蕉、与謝蕪村にゆかりのある俳句の聖地であり、「芭蕉庵」(4畳半の広さ)や
蕪村ほかの俳人の墓がある。あるいは、「花の生涯」などのヒロイン村山たか女の終焉の寺としても知られる。
C一乗寺下がり松(いちじょうじさがりまつ)
石川五右衛門処刑の少し後、これまた有名な決闘が京都を舞台に繰り広げられたとされる。
巷説によれば、剣豪宮本武蔵は足利将軍家剣術指南・吉岡兵法所の後継者清十郎を木刀で瀕死の重傷を負わせ、
復讐に燃える弟伝七郎脳天を砕き、さらに清十郎の子でまだ幼かった又七郎を総大将とする吉岡一門数百人と
洛外下松辺で決闘、又七郎を切り捨てて吉岡の家を根絶やしにしたという。
同地には「宮本 吉岡 決闘之地」という石碑は立つが大正十年建立と裏にある。決闘の真偽は怪しい?
今回の歩こう会は計画では6kmの歩きとなっているが、実際はもっと歩いたか。
参加者は14名で、その平均年齢は79.2歳。最高齢は、昭和11年生まれの森川さんでした。
殆どが上り坂か下り坂で歩き甲斐がありましたが全員元気に完走されました。
何れの場所も紅葉など新緑鮮やかで心が癒されました。
当日は、幸い好天に恵まれ、最高気温も25、26℃程、その上そよ風が吹き歩こう会には最適な陽気でした。
各訪問先には30分程度の時間を取り、多くの文化遺産や建物、庭園などをジックリ鑑賞できました。
意外にも外国人を含めた観光客がそれほど多くなかったのも幸いでした。
支部長、幹事の方々の下見や資料準備等に感謝申し上げます。
(記:矢野彰毎)
大岡弘和様作成の長浜支部歩こう会の動画集です。
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