「私の想い出」

平松 久


 私は昭和30年(1955年)、長浜ゴムに入社した。
 当時、未だ、独身者達は新築の伊吹寮には入れず、高田の辻の近くにあった旧「住文」に仮遇していた。
 そこの便所は水洗でなく風呂は五右衛門風呂だった。しばらくして、伊吹寮に入寮した。
 初めての職場は製造部樹脂技術課検定係。場所は正門を入って右手、総務棟とパイプ工場に挟まれた広場の奥にある平屋だった。
 当時、パイプの押出は、口金につけた中子で内圧をキープする技術が無く、パイプの先端にゴム栓をはめて内圧を保って整形していた。
 パイプを切断すると内圧がなくなり、まだ冷え切っていない部分が変形した。
 この変形部分の割合をなるべく少なくするために、切断するまでの長さを出来るだけ長くする必要があった。
 この為、工場の壁に穴をあけ、広場を横切って、次の建物がある所までパイプが押し出されていた。
 そんなわけで、我々の職場の前の広場には何本ものパイプが並んで、行く手を遮られていた。
 人は何とか避けて通ったが、荷物の運び込みには苦労した。当時は宿直があり、月に何度か工場で寝ずの番をして現場を巡回した。
 翌朝、現場の作業工程を報告しなければならなかったが、ゴム靴製品には符牒が多くて戸惑った。
 
 昭和37年(1962年)東京本社の企画部に転勤した。当時の企画部は、世界の中から良い技術を導入して製品化することが主な仕事だった。
 昭和40年、アメリカのポリペンコ社のMCナイロンを合弁でやらないかという話が三菱商事からもたらされた。契約交渉にはポリペンコ社副社長のヘンデル氏がやって来た。
 彼は作曲家のヘンデルを生んだ一族の出で、本当に立派な紳士だったし、三菱を高く評価してくれた。二度目の来日には奥さんを連れて来て、全くの親日家になった。
 技術導入には通産省の認可が必要。官庁折衝の為、ゴルフを始めた。通産の係員は教え魔で、結構、扱かれた。昭和41年、日本ポリペンコ社を設立して、MCナイロンを上市できた。
 初めての技術導入と、それに伴う官庁折衝は大いに不安だったが、有難いことに、三菱化成と三菱商事の係員諸氏が親身に世話してくれて、大いに助かった。
 
 そうこうしているうちに、商事からラップフイルム導入の話が持ち込まれた。
 当時、アメリカではスーパーマーケットが台頭し、コールドチェインといって、プラスチックのトレイに肉を並べ、
 べたつきのある軟質フイルムで包んで冷凍輸送する形態が始まり、急速に普及しつつある。
 これは軟質塩ビフイルムでアメリカのポリマー社が技術を売りたがっているというものであった。欧米のラップフイルムを取り寄せた所、全て半透明で、
 中には未溶融樹脂のフィッシュアイが混ざったものなど汚いフイルムが多かったが、ポリマー社の物は半透明ながら、なかなかきれいなフイルムだった。
 
 これは良い話と飛びつき、当社の持っている同時延伸技術とのクロスライセンスにポリマー社も同意して交渉をはじめた所、長浜工場から猛反対された。
 理由は、雑貨用の軟質フイルムなど、何も導入しなくて自社技術で作れるし、売れても、直ぐ、値崩れして甚大な被害をこうむるのがおちである、という事だった。
 こちらも世界事情など説明して説得に励んだが反対は収まらず、ある部長から「失敗したら責任を取って辞めろ」とまで言われた。
 営業担当トップの田中副社長の配慮で、3ヶ月間(?)調査することとなった。
 当時は商品を新聞紙で包む時代、八百屋などの通常のお店では「こんな高いもの使えるか」と追い返されることもあったが、この間、三井化学(だったと思う)が同種フイルムを上市してしまった。
 クロスライセンスで実質的な金銭の出費が無かったことや、世の中の風潮も味方して、やっと導入が決まった。商品名はダイアラップ。
 フイルム事業部の発想で、少し原料費は高くなるが液体安定剤のみ使いフイルムを無色透明にし、巻き芯に商品名を印刷して、外からフイルムを通して商品名が読めるようにした。
 極めて美しく衛生的、これが受けた。直ぐ、三井も追従し、日本のラップフイルムは透明となった。ソバ屋、ラーメン屋や寿司屋が出前にいち早く使ってくれた。
 
 1970年、「ダイアラップ」として商品化され、順調に出だしたが、3つの問題が発生した。
 第1は「虫入り問題」。フイルムが不透明か半透明だったら見えなかったが、完全透明の為、巻き芯付近の奥底にあっても混入異物が良く見えてしまった。
 当時、工場の回りには田んぼがありウンカが多かった。現場を密閉し、内圧を掛け、入り口を暗くして虫が入らないようにしていたが、完全になくなるまでには至らなかった。
 第2は「タケノコ現象」。最初に幅2メートル程度のフイルムを押し出して冷却し、太い巻物を作る。これを30センチ程度の幅に裁断しなおして出荷する。
 この際、幅広物の軸方向に左右対称の歪みが生じるが、幅広の場合は左右調和して安定していても、狭い幅に切り取ると歪を緩和しようとして右か左にフイルムがずれて来て、タケノコ状になる。
 倉庫で観察すると、夜の丑三つ時に伸び出したといった怪談まがいの話もあった。この現象は工場の技術陣の努力で解決した。
 第3は「肩こり苦情」。フイルム上市当時、プラスチックトレイに肉を乗せてフイルムで包む工程が自動化されておらず、スーパーの女性従業員がいちいち手でフイルムを引っ張って包んでいた。
 先発の三井と当社のフイルムの柔らかさが違ったので、三井の製品に慣れたユーザーに売り込むとフイルムを引っ張る力が違っているので肩が凝るというクレームだった。
 これは硬軟二種のフイルムで解決したように記憶している。すったもんだしたが、その後、長きにわたって価格の下落も無く、主力製品になったことは幸いだった。
 
 次に何をするか考えた。ナイロンフイルムは酸素を通さないので、食品包装に適している。これで行こうと世界事情を調べた。延伸フイルムは延伸機の特許問題などで作るのは難しい。
 単独フイルムはフイルム同士の融着が出来ず、ポリエチと積層するにも溶融接着できなかった。調べを進めるうちに、西独のアルコア社の技術に行き着いた。
 これは異種フイルムを口金の中で積層する共押出し法を使い、更にオゾンで両フイルムの溶融面を活性化して融着するというものであった。
 ポリエチレンとの2層フイルムになれば、フイルム同士の融着も効く。
 その上、共押出技術は他のフイルムにも広く応用されるだろうと導入に踏み切り、無事、1971年「ダイアミロン」として商品化できた。
 名前は忘れたが、技術指導に来日したアルコア社の技術者が、いかにもプロシア軍人気質丸出しの好紳士だったと記憶している。
 
 この時代、歌舞伎座の裏に会社の寮があり、麻雀をよくやった。ある時、一晩で地和と大三元をやり、“大付き”とはこういう事かと納得した。
 また、「課長代理の会」を結成して、当時の杉山社長のお話を伺ったりもした。
 筋向いにあった旧丸ビル1階の竹葉亭の「まぐ茶」と千疋屋の「苺クリーム」は美味だった。
 
 1971年、長浜研究所に転勤。ヨットに乗ったことも無いのに「ヨット部」の部長にさせられた。
 就任式だったか、湖開きだったか、初めてヨットに乗ったら強風で傾く。必死で帆柱にしがみ付いたことを覚えている。
 
 その後、平塚工場勤務を経て、再び、本社に転勤。研究管理部長、研究促進部長として研究管理体制の確立と技術者相互の意思疎通を図った。
 工場の技術者は製品ごとに縦割りで横の交流が無かったので、技術的な各種手法の講習会や飲み会で工場内のみならず工場間の交流を図った。
 若い人々に接して楽しい時を過ごしたことを思い出す。
 
 在職38年間。良い先輩、同僚、後輩に恵まれ、楽しい会社生活を過ごさせてもらったことに感謝している。
 いろいろ記憶違いの事柄があるかもしれませんが、ご容赦の程を。
 

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