「三菱樹脂の思い出」

吉井 靖


創業当時の長浜工場、のこぎり屋根の工場や黒い煙突が見える。
三菱樹脂社発行「道ひとすじ」より抜粋
昭和34年頃の長浜樹脂 長浜工場正門、左側手前が守衛所。
三菱樹脂50年史より抜粋
エアレックスのテクニカルサービス資料と
軟質発泡体(マーブル)のサンプル

 
 長浜工場時代
 
 ◎ 入社当時の二人の上司
  ☆ 昭和31(1956)年3月、長浜ゴム工業株式会社に入社。本社・工場の製造部技術課試験係に配属。
    ・担当は、パイフやプレートなど合成樹脂製品の性能評価と改良。
     職場は、正門を入り、直ぐに右折して、お稲荷さんの前を通り、その奥の建物である。
    ・上司は、東京出身のHHさん、後に知ったが、入社試験の数学等問題を作成した人である。
     HHさんは、学研の人で、独身寮「伊吹寮」で開催した、
     輪読会「合成樹脂の流動学(レオロジー)を学ぶ」の中心にいた。
     技術文献(英文)の翻訳を言われ、辞書を片手に悪戦苦闘して提出した。
    ・Hさんとは、独身寮でも一緒。部屋に遊びに行くと
     「(当時としては珍しい)泉屋のクッキーとコーヒー」が出る。
     ちょくちょくお邪魔をして、お話を聞いた。
    ・HHさんは、現在も交流が続いている。
  ☆ 同年4月、九州出身のSIさんが入社、試験係に配属された。
    SIさんが本採用になり、HHさんは熱硬化性樹脂の研究に携わり、私達から離れた。
    ・SIさんが上司の役割を担う。SIさんは、アイデアが豊富な人で、性能試験方法等で教示を得た。
    ・昭和35(1960)年、SIさんが平塚工場建設の為に臨時建設部に転勤した。
     昭和36(1961)年、私もSIさんを追うように、臨時建設部に転勤して、
     平塚工場の建設・操業に共に汗を流した。
    ・その後、SIさんは本社勤務、私も昭和45(1970)年本社勤務になり、部署は異なったが再会した。
    ・退職後も交流は続いた。が、病魔に襲われて平成26(2014)年、永久の別れになる。
 
 ◎ 宿直当番
    ・試用期間を経てから数ヶ月後、宿直当番が回って来た。
    ・宿直は、通常勤務が終了して一旦寮に帰り、夕食後、夜食を持って再度出勤し、
     一人になった職場で、翌朝まで勤務する。
     宿直中は、仮眠を挟んで、定期的に、24時間稼働している職場を回り、
     生産が順調であるかを、職長又は班長に確認し、業務日誌に書くのが仕事である。
     異常等があれば、所定の部署に通報し、対処する。幸い異常等は無かった。
    ・冬季、雪の降る中を、工場の隅にある職場から製造現場まで行くのは大変であり、
     終わって自分の職場に戻り、蒸気暖房に当たると人心地がついた。
    ・製造現場を知り、職長や班長と顔見知りになる等の利点があった。
 
 ◎ 昭和33(1958)年5月、社名を長浜樹脂株式会社に改称。
 
 ◎ 細菌性赤痢に集団罹患
    ・昭和34(1959)年頃、独身寮「伊吹寮」で、私達数名が細菌性赤痢に集団で罹患し、
     寮に隣接する日赤病院に隔離入院した。
     発生源は近くの幼稚園と記憶する。人には見られたくない格好で採便。
    ・病院では、皆が集まり、ベットの上で談笑、話の中心はKSさん、色々な話題を提供してくれた。
     時の寮長はTMさん、会社や病院との折衝、見舞や連絡と大変お世話になり、感謝している。
    ・我々は法定伝染病のため有給休暇、ひたすら治療に努める。
     数日後に退院、その足で、YHさんと馴染みのK寿司屋に直行、甘口の江戸前寿司を食した。
     K寿司屋は閉店したと聞く。
 
 ◎ ストーム、ヨット、スキー
  ☆ ストーム
    独身寮の宴会後、ストームと称して、残り酒が入った一升瓶を持って、工場長や部長宅等に、夜遅く、訪問した。
    下戸の私も、先輩諸氏の後に付いて行った。今では考えられない行為である。
  ☆ ヨット
    琵琶湖で貸ヨットに乗っていた。後にHMさんが、M化成からヨットを一挺貰ってきてヨット部を創設、指導をしてくれた。
    HMさんはポリエステルフイルム(ダイアホイル)の技術導入を手がけた人。
  ☆ スキー
    冬は伊吹山等でスキー。ITさんが本社転勤の際(高級品のヒッコリー材の)スキー板を呉れた。
    スキーは平塚に転勤後も続けたが、骨折して多くの人に迷惑を掛けたのを機会に、テニスに転じた。
 
 平塚工場時代
 
 ◎ 平塚工場竣工、エアレックスの操業
  ☆ 世に出るのが早かったエアレックス
   ・昭和36(1961)年、製品第一号は、発泡不足で表皮が象の皮膚の様に荒れた物、見事に失敗。
   ・エアレックスは、高性能、高品質の製品であった。
    この頃開発したエアレックスタンクは形を変えて、現行の受水槽に受け継がれている。
    エアレックスを芯材にした浮かぶ水着が「ダッキー」の名称で、週刊誌等を賑わせた。「救命胴衣のはしり」である。
   ・当時顧問の、牧野正巳氏は、エアレックスを用いた軽量パネルの研究で学位を取得し、
    学位論文集「建築用複合板の理論と実際(昭和39(1964)年、鹿島研究出版会、発行)」
    の表紙にはエアレックスが使われていた。(国立国会図書館蔵書)
  ☆ 工場では、野ウサギを捕獲した事、牧草の種を蒔いて砂塵を防止した事、小火(ボヤ)程度の火事か多発した事、
    塩害の碍子を水洗した事、強風で木造社宅の屋根が飛んだ事、等々思い出は尽きない。
 
 ◎ 軟質発泡体「エアフォーム」の連続押出技術の開発に成功
    昭和39(1964)年頃に、SKさんが、発泡剤を使用した、軟質発泡体「エアフォーム」の連続押出技術を開発し、
    長尺発泡品の成形に成功した。社史に掲載されていない出来事である。
 
 ◎ 昭和42(1967)年、エアレックス等が生産中止。
 
 ◎ 昭37(1962)年5月、社名を三菱樹脂株式会社に改称。
 
 ◎ ストライキ
   ・昭和38(1963)年、春闘で初のストライキ。これには、ほろ苦い思い出がある。
   ・保安要員になり、ストの時間中は、非組合員の人達と、職場の環境保全など非生産業務を行った。
    ふと、(スト解除の時間に合わせて、生産機器の温度上昇をすれば、皆が戻れば直ちに生産に入れるのでは・・・)
    と思った、が、(それは・・・)と、その考えを振り払った。
   ・後に、労務の担当者に聞くと、「スト破りです」と言われた。ストに対してその程度の認識だった。
 
 ◎ 接着剤業務の移管
   ・昭和38(1963)年、平塚工場の経理状況を考慮し、利潤の良い接着剤(ヒシボンド)業務を、
    長浜工場から平塚工場に移管することになり、打合せの為、長浜工場へTY課長に同行した。
   ・職場が防爆設備の関係で担当になる。
   ・接着剤業務を所管していたIJ次長に、励まされたことが懐かしい。
   ・移管当時は、接着剤の缶充填は手作業であり、自動化するのが課題であつた。
    後に関係者の尽力で自動化された。
 
 ◎ 生産能率の向上「標準工数管理(PAC)」の導入
    昭和41(1966)年7月、会社が、生産能率の向上手法IE(Industrial Engineering)を導入、
    平塚工場からMYさん、KFさん、NGさん、私の4人が長浜工場で手法「標準工数管理」PAC(Performance Analysis and Control)を、
    日本能率協会の指導で学び、平塚工場も長浜工場に続いて、導入・実施した。
 
 ◎ パイプ営業のPR
   ・「標準工数管理」が一段落し、管継手の外注管理を担当していた頃、本社パイプ課のSN課長に依頼されて、
    パイプのPRに営業所、代理店等を巡回することになった。
   ・巡回は、営業所の人に付いて、各地の代理店や大口顧客と面談し、
    生の声を聞き、SN課長に直接伝えることにあった。
   ・ 面談者に「三菱のブランドで売れると思わないで・・」、「売れる時は必要数を納めないで、売れない時に押し込んでも無理」、
    「クレームには、迅速、且つ確実に応答して・・」等と言われた記憶がある。
 
 本社時代
 
 ◎ 昭和45(1970)年1月本社転勤。企画部特許課に配属。
  ☆ 長浜ゴム工業社名義の最初の特許 ( 第191532号 )
     発明者 山本正巳  「塩化ビニール合成樹脂の加工方法」 出願 昭和25年3月29日
  ☆ 長浜ゴム工業社名義の最初の実用新案 ( 第443523号)
     考案者 山本正巳  「熱可塑性物質よりなるベルトの製造装置」 出願 昭和26年4月2日
  ☆ 長浜樹脂社名義の最初の特許 (第272286号)
     発明者 関 市蔵  「乳白色塩化ビニル系樹脂製品の製造法」 出願 昭和33年2月27日
  ☆ 長浜樹脂社名義の最初の実用新案 ( 第523696号)
     考案者 南部 浩   「ビニル樹脂テックス」 出願 昭和33年8月27日
  ☆ 三菱樹脂社名義の最初の特許 ( 第403175号)
     発明者 田島 穣 森川 栄寿  「曇り硝子状熱可塑性樹脂製品の製造方法」出願 昭和36年3月27日
  ☆ 三菱樹脂社名義の最初の実用新案 (第713703号)
     考案者 関 市蔵  「弾性クッション体」    出願 昭和36年2月2日
 
 ◎ 三菱重工ビル爆破事件
   ・昭和49(1974)年8月30日(金)、数名の死者と多数の負傷者が出た爆弾テロ事件である。
   ・12時45分、昼食を済ませて、9階?の席に戻り、書類を読んでいた時、身体を揺らす爆発音がした。
    階段で1階に降りると、三菱ビルと重工ビルに繋がる通路の床に血が飛び散り、負傷者や救助者が目に入った。
    席に戻り、点呼を受けた。オフィス内には正確な情報が入らないために、
    一時は「ガスボンベを積んだ車が事故を起こした」等の噂が流れた。
   ・三菱樹脂社は、負傷者は出なかったと聞いた。
    なお、丸ビル側を歩いて人に、落下したビル壁の破片が当たったが、大事はなかったようだ。
   ・重工ビルと丸の内仲通りを介して向かい合う、三菱電機ビルの一階の分室に居たM化成の人達は、
    爆風でビルの窓ガラスが全部破損したが、飛散したガラス片をカーテンが包んで落下したので、負傷者はいなかったようだ。
   ・重工ビル入口の惨事を写した当時の写真に、破損した三菱樹脂社のPRカー2台が写っている。
    爆発当日、PRカーで帰社した一人が、重工ビルの入口付近に置いてあった、円筒物に手を掛けた際、
    他の一人が、「それは会社の製品では無い」と制した。
    もし、間違えて円筒物(爆発物)を二階のオフィスに持って行ったら、別の形の惨事になっていたと、仄聞した。
   ・後日、個々人に警察の面談があり、不審者や不審物を見なかった等を聞かれた。
   ・報道によれば、昭和50(1975)年5月19日に犯行グループが逮捕された。
 
 ◎ 定年退職一年前
   ・平成8(1996)年6月、容器事業部のTSさんとSHさんの計らいで、ペットボトル協議会の技術委員に推挙された。
    三菱樹脂社からは、TTさんが企画委員としていた。
   ・当時、三菱樹脂社は、技術委員会の副委員長会社であった。
    そんな関係で、ペットボトルの製造等の経験は無かったが、各種の会議や立会、見学会には積極的に出席して、
    同業のT社やY社の人達とも親しくなり、交流を深めた。
    PETボトル自主設計ガイドラインの制定などに関わった。
   ・平成9(1997)年4月、回収された使用済みのペットボトルを再利用するために、
    洗浄・微細(フレーク)化する工場「よのペットボトルリサイクル株式会社」(三重県伊賀市柘植町)の建設・操業に携わる。
   ・得難い経験の場を与えてくれた、TSさんとSHさんには、今でも感謝している。
 
 ◎ 定年退職
   ・平成9(1997)年9月定年退職。在職中は、多数の人達と出会い、助けられ、お世話になった。感謝している。
    その一部の人達とは、退職後も定期あるいは、不定期に交流している。もっとも、思い出すのも嫌な人もいるが・・・。
   ・平成10(1998)年4月、OB会「中国観光ツアー」で、大先輩の、平塚工場長等を歴任されたOHさんに久しぶりにお会いした。
    その際「退職後は新しい空間に出て、刺激受けるのが良いよ。それが元気の証、源だと思う」そんな趣旨のことを言われた。
    実践するように努めている。  
                                                               完
 
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