「入社当時の思い出」

鹿島 静哉


  昭和39年4月三菱樹脂に入社した。
 本社、平塚工場、長浜工場での三交代勤務での実習等を経て、長浜工場のチューブ課に配属が決まった。
 
 チューブ課では技術開発の担当で新しいチューブの製造方法等を検討した。
 ドイツで開発された竪型押出機を導入し、横型押出機を組み合せ、
 2色のチューブの製造する技術の開発であるが、当時の金型技術では中々うまく出来ず非常に苦労した。
 設計の方の応援を得て何とか2色チューブを完成さす事が出来た。
 最初の用途は当時外国扱いだった沖縄で酒類の瓶のキャップシールであった。
 2色チューブは印刷等では真似が出来ないので、印紙替わりの使用との事であった。
 相当量の出荷は行われたが、沖縄の日本変換で終了した。他では中々用途開発が進まなかった。
 
 チューブ課では物干し竿用のチューブの全盛時で大きな利益を出していた。
 当時の長浜工場での稼ぎ頭であった。
 しかしチューブ課の人員は非常に多く、最大で180人位が在籍していた。
 先々を考えた場合、合理化が急務であった。
 
 能率協会指導による数値管理による生産性向上いわゆるPAC(標準工数管理)の導入が検討されており、
 モデルケースとしてチューブ課で実施される事になった。
 管理部、平塚工場スタッフ等大勢の人の応援を得て、工程毎に標準時間が設定された。
 三交替毎に数値が算出され、各組の成績がグラフで表示され、毎月の職長会議で対策検討会が開催された。
 私を含めスタッフ3人が三交替に入り、職長を補佐して色々な合理化対策を実施した結果、
 一年間で成績が大幅に向上した。
 チューブ課の人員も大幅に削減され、業績は一段と向上した。
 チューブ課が成功したので、工場の全職場でPACが実施される様になった。
 
 物干し竿チューブの実用新案10年の時期が迫った事、ほぼ全国に行きわたった事もあり段々生産量も減じてきた。
 変わって鉄管に被せる鉄管チューブも生産開始したが独占生産ではなかったので、それ程業績に貢献出来なかった。
 お酒、醤油等のキャップシール用が最も生産量が大きくなった。
 その後はテレビ、ステレオ等の家電製品に使われるコンデンサー用、乾電池用等のチューブの販売が増えてきた。
 これらは工業用途で品質要求が厳しく、又自動機適正を要求され、品質向上、
 性能向上の為の配合検討、製造技術の開発に追われた。
 コンデンサーメーカーは労働集約型産業で女子工員を多く使うので、
 東北、信州等地方の工場が多く、技術打合せ等で地方への出張が多くなった。
 各コンデンサーメーカーの地方工場を回ると一週間位の出張になる事も良くあった。
 各コンデンサーメーカの標準色及び品種毎に新色を採用するので新色でのチューブ生産が増えていった。
 似た様な色が多く生産管理に苦労した。
 夜勤等で呼び出しを受け、微妙な色の振れで生産中止するか続行するかの判断を求められ、
 納期の問題も考慮しなくてはならず非常に苦労した。
 
 コンデンサーメーカーの東南アジア、中国等への生産移行が増え国内生産の縮小、
 韓国他海外メーカーの収縮チューブの採用等での値下げ要求等もあり、
 チューブの業績も厳しい時代に突入していった。
 ヒシチューブの生産もベルギー、アメリカ等での海外生産が始まった。
 私はフイルム本部、東京支店チューブ営業課長、チューブ製造課長を経た後、平塚工場研究部、
 新商品事業部、成形品事業部、品質管理部等の仕事をしたがそれらについては別途纏めて記す。
 
  組合活動
 入社当時経営陣と組合が賃上げ交渉の春闘の真最中であり、
 実習中もストライキがあり我々非組合員は勤労の人の指導で草刈り等を行った。
 会社の業績も厳しくなっており、このままでは良くないのではとの気運が高まっていった。
 入社翌年の4月組合改選の時期に支部執行員の候補に私の名前が書かれていた。
 事前に相談された記憶はない。
 選挙の結果長浜支部執行員になり組織部長の役職を貰った。
 5月1日はメーデーで組合員全員がグランドに集合し整列していた。
 当時は長浜工場の人員は多くおそらく2千人以上だったと思う。
 中央委員長、支部長等幹部の挨拶の後、組織部長が市内の行進の注意事項等を説明する様に言われた。
 壇上に上がって注意事項を読み上げたがこんなに大勢の人の前で話すのは初めての経験であった。
 又オルグ活動等で長浜支部傘下の富山支部に組合方針等の説明に行ったりした。
 チューブ課でPACが導入されたがこれらの生産性向上活動について会社側から組合への説明会があった。
 私はチューブ課スタッフだったのでこれの資料作成にも係った。
 チューブ課での成功を基に長浜工場全職場に広げていく事になり、順番に実施職場が決まり、
 その都度組合も職場環境の向上等の意向を聞いて、会社側と交渉する事になった。
 3交替現場では夫々での職場集会に出向き、PACの説明及び職場の要求を聞いて集約して会社との交渉に臨んだ。
 当時の組合員の中には執行部に対して敵対的な人も沢山いてこれらのいる職場では応対に苦労した。
 PAC導入が全職場で終わった後、次は交替職場の連三への変更の問題であった。
 パイプとかダイアホイル等では月曜日の立上げに時間が掛かるので
 生産性向上及び品質の安定化を図る目的で連続三交替勤務に変更する事になった。
 大きな労働条件の変更になるのでこれも会社との労使交渉になる。各職場に出向き連三の説明と職場環境改善の要望を聞く事なった。
 長浜地区では日曜日に行事が色々あり、これに参加出来なくなる等の問題があり反対も多いが
 今後の生産性向上には連三は避けられない状況であり、取り纏めに苦労した。
 全職場が連三に移行するまではかなりの時間が掛かった。
 
  長浜市市会議員選挙応援
 市会議員の選挙があり当時の中央委員長の藤田さんが立候補された。
 工場の人員が多いので当選は間違いないが1位当選する事が重大であった。
 前回で1位当選の前委員長U氏との一騎打ちである。
 どうしても1位当選する為支部執行員全員で応援する事になり選挙運動に交替で参加した。
 これも初めての経験であった。
 人の前で話す事は苦手であったがそんな事は言っておられないのでマイクを握り応援演説を行った。
 選挙結果は1位当選で、祝賀会では朝方まで祝杯を挙げた。
 会社生活で遅刻した事はなかったが、この日遅刻してしまった苦い思い出もある。
 
  高野裁判傍聴
 当時組合では高野裁判を抱えていた。
 実習を終えた後高野氏が本採用にならなかったので「思想信条の自由」に反するという事で裁判になっていた。
 組合は高野氏を応援する立場であったので、東京地裁での裁判に長浜執行部も傍聴の為出向いた。
 近くの日比谷公園で弁護士より説明を聞いた。この様な裁判に係ったのも初めての経験であった。
 
 管理職になるまで支部執行員を3年間、中央委員を2年間合計5年間組合活動に携わり色々な体験をする事が出来た。
 最初の一年はチューブ課で三交替勤務をしながらで、夜勤明けに組合活動が入ったりすると24時間会社にいる事もしばしばあった。
 若くて体力があったから出来た事と思う。
 
  山岳部活動
 チューブ課スタッフで新入社員の歓迎会が社員会館で行われた。
 自己紹介で「大学時代にワンダーフォーゲル部で山登りやスキーをやっていた」と話した所、
 チューブ課の先輩のHさん、Yさん、Tさんの3人が工場の山岳部に所属されており、すぐに入部させられた。
 
 7月に三菱化成グループの合同登山が北アルプスで実施される事になり、
 長浜山岳部から12名で参加する事になり、メンバーに入れられた。
 涸沢に集結したが三菱化成は黒崎他沢山の工場からの参加があり、50張り以上のテントが張られ、
 夜は賑やかなキャンプファイアーで、各工場単位でアトラクションを披露した。
 翌日は奥穂岳の登山を行った。長浜工場の山岳部の活動は毎日曜日に霊山岳とか伊吹山の登山等が実施されていた。
 
 冬場は余り活動はしなかったが冬の伊吹山登山が実施され参加した。
 ワンゲルでは冬に富士山の登山を経験したが、
 大概は山スキーで冬の岩手山での1ヶ月の合宿(−20℃を体験)とか妙高山での合宿、
 安達太良山の山頂よりの滑降、吾妻連峰での合宿、滑降等を経験しているので、
 伊吹山にもスキーにシールを付けて登った。
 他の隊員は徒歩での下山であったが私はスキーで滑降する事としていた。
 10合目から9合目の間は急斜面で上から覗くとほぼ垂直に見えちょっと怖気づいた。
 勇気を出して斜滑降・キックターンの連続で何とか滑り下りる事が出来た。
 入部3年目には部長を任せられ、色々な山行計画をしたり、一般参加の湖東三山のバスツアーを企画したりした。
 又日常のトレーニングでマラソンをしたり、リュックに石等重いものを詰めての歩行訓練等も行った。
 剣岳での合宿のため太郎坊山での岩登り訓練等にも参加した。
 剣岳合宿では岩登り主体のチームと一般コースの2班に分かれ登山した。
 女性を含め12名の参加であったが一般コースを担当した。
 結婚するまでは殆どの日曜日を山登りで過ごした。
 
  スキー部活動
 長浜は伊吹山等近くにスキー場があり、スキー部があったので入部した。
 ワンゲル活動では年間30日位スキーをしていた。
 ただワンゲルのスキーはリフトも何もない夏小屋を基点にして近くの斜面を自分達で踏み固めてゲレンデを作り、
 基礎技術を練習した後はシール(アザラシの皮で出来たものでスキーの裏に付けると
 そのまま前進はするが後退しないので、斜面を登るのに便利。上に登ったら外してスキーが出来る。
 アザラシの皮は高いので我々は安いナイロン製を使用した)を付けて山に登って滑り下りてくる。
 新雪を滑る事が多く、転ぶと起き上がるのが大変で結構体力を使う。
 自炊をしながら10日位過ごすが暖房設備が貧弱なので、小屋の中はとても寒かった。
 
 三交替しながらスキーをしていたので、早出の後部員の方の車に同乗させて貰い
 伊吹山のスキー場で暗くなるまで滑った。
 日曜日は仲間と毎週滑りに行った。
 時には一般募集のスキーバスで敦賀国際スキー場等でのスキー教室を開催し、スキー部員が指導を行った。
 私は初心者を対象に指導を行った。
 地元の人でスキーをした事がない人も結構いるので多くの初心者を指導した。
 鹿児島出身者が雪国の若者を指導するという皮肉な結果になったが、
 彼らは運動神経が良いせいか上達が早く、その後一緒にスキーに行った時は私より技術が上っていた。
 正月休みには学生時代に合宿を行っていた岩手山の麓にある網張温泉に国民宿舎とスキー場を開設したと
 当時世話になった人より招待状を戴いたので、ワンゲルの仲間と一緒に出掛け久しぶりの岩手山でのスキーを楽しんだ。
 工場近くの中川スポーツが信州の野沢スキー場にバスツアーを開催したのでスキー部の仲間と一緒に参加した。
 12月〜3月までの日曜日は全てスキーを楽しんでいた。
 結婚して子供が出来た後はもっぱら家族スキーで、小さい子供をおんぶしてスキー場に連れて行き
 妻と交替でスキーを楽しんだりしたので、スキー部は退部した。
 
  会社生活を振り返って
 昭和39年から57年までの18年間ヒシチューブの技術開発、製造、営業を担当した。
 又フイルム本部ではチューブのPR映画とかカタログの作成も行った。
 
 昭和57年から平塚研究所及び新商品事業部、成形品事業部等を兼務し
 リム成形品の開発、製造、営業等を担当したが事業見込が厳しく製造中止となった。
 
 平成4年より本社研究管理部で研究テーマの管理、会社幹部への事前説明会、研究テーマ審査会の議事録作成等を行った。
 
 平成6年より出向して菱成樹脂の金成工場長となり工場管理等を行った。
 ここではペットボトルに被せるフイルム製品の印刷及びシール加工等を行っていた。
 コンデンー用ヒシチューブの印刷等も行っていた。
 
 平成12年定年退職後は菱樹商事でアルセットの輸出業務、技術サービス等を担当した。
 貿易の仕事は初めてだったので海外事業部等で貿易の実務を勉強した。
 又マレーシア、シンガポール等に出張し日系のアルセットの加工メーカー
 及びコンデンサーメーカー等への技術サービスを行った。
 
 平成15年より機能材事業部の電子関連製品の環境データーの作成を行った。
 ソニー、松下初め全ての電子・電気製品メーカーより環境物質の不使用証明書
 及び分析データーの提出が要求される様になりこれらの作成等を行った。
 大学で化学物質の分析法の研究を行っていたが入社以来初めてこの知識を生かす事が出来た様な気がした。
 環境関連物質は年々増加し、環境調査のデーター提出が営業の必須要件となり
 多い時はひと月で100件の作成を行った。
 又環境物質及び電子・電気関連メーカーの規則等を取り纏め整理を行い、
 工場の製造、技術、研究所及び営業担当者を対象に説明会を年2回開催し啓蒙を図った。
 又松下その他製造メーカーの長浜、平塚工場への立入り環境調査会
 及び新製品の採用時のメーカーの立ち入り調査に立ち会いを行い工場技術者の補佐を行った。
 
  ここに纏めてみると実に多種多様な仕事を行ってきた。
 これらの仕事が出来たのも健康であったからこそと思う。
 60歳の時前立腺ガンで入院したがそれ以外では病気で休みをとった記憶はない。
 
 50年以上前の事について当時を思い出しながら記入したが
 記憶違いがあるかも分からないと危惧している。
 
 良い上司、仲間に恵まれ、
 40年以上の三菱樹脂の会社生活を送る事が出来た事を感謝して終わりとしたい。
 
                                              以上

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