「三菱樹脂の思い出」

包装研究からフィルム事業部で

部谷宣之


  私は商品研究所長浜研究部加工技術2課へ’66年の6月に配属となりました。
 4月入社以来社会人、会社人、さらに儲け人間となる様教育をして頂いてさあこれからと一歩を踏み出そうとしましたが
 周りを見れば現実は厳しく習得鍛錬しなければならないことが沢山有ってこれに向き合う事が課題になりました。
 平成の仕事選びは自分に合う仕事を見つけるのを第一として沢山探して入社しても合わないと辞めてしまう。
 この様な人が大勢いると聞きます。
 私は自分の描いた方向に合っていればそこで定年までと決めて仕事をしてきました。
 
  配属部署の業務はフィルム製品の販売拡大のために新用途を探り、使い方を開発し、お客様へ使い方をご指導する事でした。
 その中の一つにラベル用収縮フィルムをブローボトルへ被覆する方法を発明しこれの関連技術の開発が有ります。
 これにはその時すでに事業を辞めていた有底パリソンのブローボトル(商品名マーベラー?)が課に残っていてこれを使って開発しました。
 この開発品を持ってお客さんと加工屋さんへ説明に歩きました。
 これで大きな展開があったのは最大手化粧品メーカーの男性化粧品容器の被覆に採用されたことです。
 その後出張のお供にした方が居られると思いますが酒の1合ボトルに採用されました。
 又お客さんとはどんな方かを知る良い経験をしました。
 そうこうする内に中心業務であった包装をグループの名にして包装研究グループになりました。
 初期の射出成形で出来たラップ用カッターの原型を他社カッターの良いところと
 歯に触れ怪我をしないように配慮したモデルをグループのHさんがプレートを使って仕上げました。
 こんなこともしていました。
 前から会社の構想に包装用フィルムの拡販は出向いて説明するだけでなくお客様に来て頂いて
 共に包装材料に求められる多様な機能を検討しその結果フィルムを使って頂く。
 こうなれば納得の上使って頂く事になるので良い関係が出来ファンにもなって頂ける。
 これを実施する場所は都会に近い平塚工場でとして準備して来ました。
 これの最終段階で’73年4月に最後の人が長浜から移動して「フィルムの貼り合わせ複合化」
 「食品とフィルム包装」「包装技法」の三つを掲げ平塚包装研究がスタートしました。
 ここでの中心業務はナイロン系フィルムの拡販で長浜時代から引き継いだものでしたが
 環境問題の急速な広がりも有って脱塩ビが叫ばれA−PET、ABS、PP、スチレン系シートなど非PVC化も検討の対象になりました。
 
  包装研究在職中のこの頃包装技術は稚拙ながら体系化されつつ急速に進歩した時期でした。
 技術の進化確立のため業界が努力するなかで悪い包装は保護機能が悪く中身が傷んで使えなくなり、デザインが悪いと客が手に取らなくなる。
 今となれば当たり前のことが包装商品に要求されるようになりました。
 包装をやると儲かる事に気づいたメーカー自身が包装試験をして改善に取り組む所も出てきました。
 各地に包装試験所や研究所が出来ました。
 包材メーカー、包装機メーカーも自社品を売らんが為に頑張り包装技術学校も開校したので包装の向上に寄与しました。
 以前の包装は兼務の片手間仕事であったケースも見受けられましたが専門にして取り組む者と組織が増えました。
 私は体系的に包装を把握したいと考えましたので通信教育に取り組み包装とは、商業包装、工業包装、輸出包装、デザインなどに接しました。
 スクーリングで顔見知りも出来て楽しいものでした。
 
  包装には内容物を包むという保護機能と装(よそお)うの購買意欲喚起、伝える機能として表示が必要です。
 中身が主役は当然ですが本末転倒上げ底のような悪い包装も沢山有りました。
 今ECO時代になって上げ底のような悪い包装は淘汰され、悪い包装では物が売れなくなります。
 包装に色々な要求品質が有る中で記憶ではU社初のフィルムであった延伸ナイロンフィルムは破れにくくフィルム包装の地図を塗り替えました。
 フィルム包装の最大の要求機能は客が開封するまで破れていないことですから破れにくいは画期的なことでした。
 特に冷凍食品の包装に多用され独壇場でした。
 U社の担当部長さんがこのフィルムについて包装業界でどんな位置づけになるのか知りたかったのでしょう意見を聞きたいと来社されました。
 このフィルムはTダイ法で世界初の製法でしたから相当調査検討して事業に踏み出したと推察しますが念には念を入れてと言うことなのでしょう。
 特許製品を持つものは強いとも思いました。
 
  次の年号は何かが語られる今、多くの商品のパッケージが包装材料の進化と共に完成の域にあると思いますが
 三つ子の魂百までと有りますが職を離れたのに未だに包装に目が行くのか近所のスーパーで数件の包装と表示の不具合を見つけました。
 そのうちの一つは大手メーカーの超人気商品でした。
 不良原因と対策の報告書と共に担当者から電話がありクレームと対応について話を聞かせて貰いましたが
 腑に落ちない点があって歯止めはどうするか、製造工程での対策など話をしました。
 最終的に製品差し替えで決着しました。
 なお当然このスーパーの担当者がこのクレームの処理に入ってくると思っていましたが納入業者へ丸投げでした。
 仕入れた物を自分の物とせず扱かって居ることに少々違和感を感じました。
 クレームがあると良い面も悪い面も会社の姿勢が見えます。
 全くクレームがないと過剰品質ではないかという声も有りますがクレームは絶対出してはダメ。
 競合品があれば品質比較をし、無ければ顧客要求事項に照らして品質レベルを把握し適切なレベルへ、低コスト化をはかることです。
 
  クレームと言えば規格ですが事業部へ転勤後のことになりますがどこかで聞いた話で、
 有る加工屋さんが巻物の受けいれ管理を重量でやっていたところ最近軽くなった。
 巻き長さが短くなったのではと苦情があり調べてみたら、@厚み精度が良くなったので平均厚みを下げた。
 A品質管理が厳しくなって正確に扱ってなかった加巻きを規格範囲内にする事にした。であったそうです。
 両者それぞれに問題があって規格に照らして事を進めることの大切さの例ですし。
 効率化の名のもと事の本質を配慮せず端折っつて重量で処理していたからでしょう。要注意です。
 この頃ISO9000の普及、拡大で色々な事がおこりましたこれもその一つかもしれません。
 事業部の製品もこの規格を取りましたがISOやJIS等規格の考え方が私にはなかったのでこの取り組みは一からの勉強で苦労しました。
 
  ’74年12月にフィルム本部へ転勤することになりましたが色々経験が無い者も勤まるのかと思いつつ
 又やり残した顧客と我が社製品のマッチングも走り出したばかりでしたが後を託して転勤しました。
 今までより顧客と営業陣との交流が増え新しい業務に向かうので営業活動はどうやるのかを知りたく
 いくつかの参考書に取り組みましたが弾の打ち合いと戦果を引用して商戦を論じたランチェスターの販売戦略が印象に残っています。
 また戦術や戦略と言う言葉を使うのも目新しいことでした。
 本部における担当業務は新製品と既存製品の新用途を開発することです。
 従来新製品の企画は主に企画部の仕事でラップやナイロン複合品は企画部で生んでいただいたと認識しています。
 そのうち事業部も関連の物に力を入れるようになりました。
 具体的には菓子ひねり包装分野への拡販、生肉包装分野の市場開発、畜肉加工品分野へ売り込み、
 ナイロン系フィルムの損益改善、ナイロン/EVAーOH系フィルム事業推進。等でした。
 
  赤字製品が黒字化した時は仕事冥利に尽きます。
 では第一に菓子ひねり包装用フィルムの拡販に取り組みましたが赤字続きでこの後も関係が続きますが
 事業部営業担当のUさんと検討して販売を止めることになりました。
 
  このフィルムHDPE一軸延伸品の問題点は
 @後発であった。
 A包装機に使用する専用の刃物が先発フィルムメーカーに押さえられていた。
 B包装機もAと同様であった。
 Cこのフィルムの製法は競合品も同様と考えられ品質優位性を持たせることが出来ないと予想された。
 Dこのフィルムは縦方向にだけ強いと言う性質で用途は菓子と硬貨の包装だけでこのほかに展開出来ないと推察された。
 Eオレフィン原料を使うフィルムの価格競争に巻き込まれることが予想された。
 F帯電防止問題の解決に少々時間を要した。
 G先発メーカーT社M社はこの分野で体力がありそうであった。
 等々有って撤退することになりました。
 それにしても一度生み出したものを辞めると言うことはつらいものです。
 お客さんや業界関係者の信頼を失いここまでの損失は取り返せません。
 又これに関わった人の努力も無駄になります。
 その後どの様なものを扱う場合にも売れるか、作れるか、儲かるかと毎日唱えていました。
 なおこのひねり包装の形態は両耳が立っているため外装の袋が嵩張って見えるので未だに一部で使われていますが
 ひねり包装は密封包装でないため一旦外装の袋を開封放置すると飴が吸湿してベトベトになる欠点が有ります。
 皆さんご存じのように今飴粒の個包装はポリプロピレンフィルムを使った密封包装が主流になり吸湿問題は大幅に改善されています。
 三菱樹脂のこの用途へのフィルムはちょっと良い名前だと思いましたがダイアポプレンが有りましたが
 すでに販売をやめっていて昭和30年代に発刊された本にこの名前が出ていました。
 どこかのフィルム架台に残っていたフィルムを見た記憶があります。
 
  製品の利益向上は事業部一番の大切な仕事です。
 商品は成り行き任せで利益が増える事は無いので何かしなければなりません。
 昭和30〜40年代から所得倍増、列島改造等で国が豊かになって日本の食生活が洋風化し
 食肉の消費が増えると予想されていたのでこの用途向けに販売を始めていた食肉包装用ナイロン系フィルムが有りました。
 しかし赤字続きでしたので収益改善に取り組むことになりました。
 このフィルムは生産と技術面で2度大きなチャンスが有りました。
 一つは経費的には負担が増えますが工場の再配置でN工場からA工場へ移転し増設も可能な明るい広い工場で生産が出来る様になったこと。
 もう一つは技術本部の生産設備のシステム化検討の一つとしてこのフィルムを取り上げて頂き、
 実行面では設備技術部のYさん以下の協力が有って競争力のある新規技術を開発して頂きこれを導入する事ができ、
 製造現場がこの新技術をものに出来たことが有ります。
 
  N工場時代を含め市場調査、販売見込み、拡販、販売実績、技術開発、合理化計画、等々に取り組み
 年に2、3回幹部報告を行いこの様に進めて参りますと申し上げて事業継続の了解を頂いていました。
 しかし販売計画が実績を伴わず初めの内は叱られていました。
 徐々に販売量は増加して今一歩で黒字化するときに能力が不足となり増強のお願いをして認められたことがありました。
 四苦八苦していましたが懲りずに幹部の方々に話を聞いて頂きました。よく続いたものと思います。
 当時は国民が豊かになるばかりでなく200海里問題で魚の代わりにタンパク質は肉へと変わることも追い風になって肉の包装が増加していました。
 しかし拡大市場故品質、価格、他の競争もハードでした。
 生産現場、技術グループ、設備技術グループ、販売担当者等皆さんに前進無くば止(や)まじの心があったので幹部報告を続けられたと思っています。
 
  フィルムの進化は秘密事項と思われますので語りませんが当時の起業では折り返しではなく何か新しい考えを取り入れて設備投資を行っていました。
 設備に織り込んだ仕様が品質や品揃えの要求に合致し拡販にも繋がりました。
 損益改善でよく出る人員削減は現場の皆さんに技術の向上の他にこの点も頑張って頂きました。
 黒字化して新技術のラインを増設し稼働して赤字対策が終わりました。
 
  この話の中で忘れてはならないもう一つは購買のNさんの発案で何か原料メーカーへ提案をしようというものです。
 そこで@拡販状態にありましたから原料の購入量が増えたら値引きをして貰う。
 A私達は優秀な加工屋です新しいレジンの紹介は当然受けますが特徴が有っても加工が難しい原料は当社に任せて欲しいとPRして貰う。
 の二つをお願いしました。
 前者は期が変わる毎に価格改定で10円20円と値下げが有りました。
 後者で塩ビなら配合で独自性を出せますが当該品の原料は改質があまり出来ないので特徴の有る原料を早く見つけて使いこなす事が競争力を生みます。
 色々原料を評価しましたがどの様な物であったか思い出せません。
 目立たないが良い仕事でした。
 関連の商品開発として複合収縮フィルムも出来この業界への品揃えが出来ました。
 これにより畜肉業界へ新しい提案ができ競合の加工屋とコンバーターの役割を見ることが出来ました。
 
  ナイロン系フィルムも色々なクレームがありました。
 国内で多かったのは袋の破袋でピンホールという小さな破れが包装作業中、
 流通中に生じる問題で当社品はこの点が良いと言われていましたが初期には大きな問題が有りました。
 
  もう一つ大きなクレームは南半球へ袋を輸出し日本へ送る肉を包装し日本へ着いたところブロック肉の断面が褐変している
 というクレームで冷蔵コンテナー内の肉がクレーム対象。
 大変な金額になると肉の輸入業者から連絡がありました。
 それから1ヶ月我(わが)食品包装グループ、今も文通のあるM大学のO教授、研究機関、
 相手国の研究管理機関等から情報を得て輸出業者へ乗り込みました。
 この出張には海外部のNさんに同行して頑張って頂きました。
 大変hardな話し合いになりましたが相手の褐変部の肉の処理代と相殺で販売した袋の返品を受ける事で決着としました。
 原因は充分冷えていない肉を低酸素状態に置くと表面が褐変する。
 褐変した包装物は断面の中心部が褐変しており包装前によく冷やしていなかったこと。
 包装の中は低酸素状態になるので現象は一致する。
 ならば冷却が不充分な肉ならどの様な包材でもおこる問題ではないかと指摘しましたが従来品ではおこったことがないと相手は言うだけ。
 ここでは調べようがない。
 競合品と比べて当該品のガスバリアー性は吸湿して悪くなるので劣る事を調べて申し立ててきた。
 ガスバリアーの差が褐変の有無には関係の無いレベルだと主張しましたが聞く耳を持たないし、
 この地にまだ販売したいと考えていたので引くことにしました。
 
  問題商品が良くなると日常業務を素早く処理して商品の利益拡大に取り組まなくてはなりません。
 日常業務は生産や販売の実績を見て問題点の有無を把握することを毎月やりました。
 これには経理審査部門に電算データがあって活用しました。
 入社以来損益表を見ることがないまま本社に来ましたので損益の把握には審査や工場経理のみなさんに時間を費やして頂きご指導を受けました。
 これが理解できないうちは本当に泣きました。
 又権利についても特許部のご指導が有って感謝の気持ちは言い尽くせません。
 
  技術事項の大きな定例の仕事に技術計画と起業審査がありました。
 少々難しい面が有りましたが研究や設備投資は将来に対する種まきですから捻り鉢巻きでとりくみました。
 
  次なる新製品の開発は当時企画部が担当していましたがそれぞれの事業部も
 その他関係する社員も加わって全社的に新事業になる商品探索を行っていました。
 我がフイルム事業部ではMさんを中心に研究部が開発していた特殊な複合化技術で難燃シートほかを、
 現場技術グループの特殊ミシン目の透明ケース、他を製品化すべく事業部内に加工品部を作り長浜に関連の製造部署を置きました。
 難燃シートも透明ケースも良い商品に育ちました。
 現行品では環境問題のうねりの中フィルム事業部の主力商品であるダイアラップとヒシレックスの代替品の販売を開始しました。
 ビニホイルも対策にはいりました。
 環境問題は水俣の有機水銀、四日市喘息、等そこら中で問題が発生しましたが
 これらに続いてアスベスト、家電製品に使う難燃剤、そしてプラスチックの代表として塩ビモノマーが発癌性を問題視されました。
 塩ビは原料メーカーが工程改善でモノマー量を管理し収束したように記憶しています。
 それでも塩素を含有するポリ塩化ビニール樹脂は悪印象を持たれることになりました。
 アスベストが今頃再度問題になっているのは直接の問題点の他に組織の問題が出てきます環境問題を知る勉強台になります。
 
  次にゴミの焼却の際塩素と有機物が有ると有る条件下で発癌物質ダイオキシンが生成する事が分かり問題になりました。
 塩を含む食品残渣は如何ともしょうが無いと言う事のようですが包材は代替を強く要求され
 競争メーカーも対応するなど有って代替品の上市を急ぐ事になりました。
 ポリ塩化ビニルは一物で両方を持っているので強く打たれ対応を迫られました。
 一方焼却方法の条件検討で煙を冷却しフイルターで漉し取れば抑制できることが分かり
 順次ゴミ焼却炉は対応したため人体に影響の無いレベルとなりました。
 廃棄物処理で適切に処理が行われば塩化ビニール樹脂は良い性質を持った材料と思いますが
 一旦代替品になってしまった物はなかなか元に戻りません。
 なお競合メーカーは市場ニーズに即応してシェアーを伸ばそうと考えているので注意していなければなりません。
 ヒシレックス、ダイアラップの代替品は非塩ビの市場動向から予知して開発研究をしていたため
 比較的素早く対応出来たことは先輩方の英知と気づきによる物です。
 そして研究所で産声を上げたラップの代替品は大変良いものでした。
 供給者の地図を変えました。
 
  もう一つ地球的課題は2度のオイルショックで資源は有限でありタダ同然であった原油が大変高騰したことで省エネと省資源が叫ばれました。
 さらに環境と人間への影響として殺虫剤と農薬。
 炭酸ガスで温暖化が顕在化し世界中ECOが共通語になりました。
 社内では横断的に’94年に資源再開発プロジェクトが出来たと思います。
 
  薬物公害を取り上げ環境問題を語った’62年に刊行のレイチェル・カーソンの「沈黙の春」が思い出されます。
 足尾の鉱毒問題はこれより前です。
 温暖化問題を否定する人もいますが公害が話題になって40〜50年、マイクロプラスティックの微生物への影響。
 猛暑、記録的な大雨、強風竜巻、強力な熱帯性低気圧、北極海の海氷の消失、などは人為的なものだと言われます。
 私達は何も対応しなかったのではありませんが良い地球を残すにはマダマダたりない。
 包装は中身を取り出せばゴミここにも取り組まなくてはならない物があります。
 
  包装研究在籍8年半事業部25年、大勢の幹部の方、何代もの事業部長の方、上司の方、先輩方、
 同僚、後輩、事業部の営業担当の方、営業販売の方、関連部署の方々、工場・技術・研究の方々、
 地下酒場で懇意になった大勢の方に支えられてここまで来ました。
 2000年4月に菱江産業株式会社へ出向となり三菱樹脂と区切りを着けることになりました。
 菱江産業の業務はフィルム事業部製品と関係が深く顧客に近い川下商品で従来から懇意でした。
 ここでも皆さんに支えられて3年弱を楽しく過ごさせて頂きました。
 
  入社の頃NさんとSailingを楽しんだこと。
 1000回位新幹線に乗れたこと乗り物大好きです。
 琵琶湖の空気は柔らかく甘かったこと自然が好きです。色々ありました。
 
  最後に、会社の仕事は何らかの形で包装に関わって来たこと大変幸せでした。
 包装を語らずに私の三菱樹脂は語れないことになりました。
 またナイロンフィルムのTさん、Sさん、Hさん長い長いお付き合いでした。
 先に列記させて頂いた方々。
 定年後もお世話になっている方。
 そして三菱樹脂。
 皆々様 お付き合い有り難う御座いました。
 
  Something Greatに南無と唱えて深謝です。
 
  (遠い遠い昔のこと間違いがありましたらご容赦下さい
 
   e-mail : nob-heya@mpd.biglobe.ne.jp )
 
                                     以上
 

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