「三菱樹脂の思い出」
「長浜樹脂」から「三菱樹脂」へ
当時の風景
古川國男
昭和35年入社面接を受ける頃。
会社はまだ長浜樹脂と云い、本社機構、工場とも長浜という状態でした。
ただ、会社情報誌によれば、三菱樹脂への社名変更も、本社機構の丸の内移転も内定しており、
平塚工場の建設も始まっていたと記憶します。
当時、「店頭株市場の白眉」と、会社情報誌で紹介されたこともあったと思います。
入社したての頃、夕方のゴールデンタイムに芥川也寸志が司会する「日本の歌?」
という素敵な音楽番組を提供していました。
広報宣伝部門には芥川賞受賞作家の辻亮一さんがおられるという具合で、
九州から初めて出てきた私には好い会社に入ったものだと思われたものでした。
入社して2ヶ月間長浜の総務で実習を受けてから本社総務課へ赴任。
その日は忘れもしないS36年5月29日、丸の内の日本工業倶楽部での株主総会の日でした。
それまでは株主総会も長浜工場の国道8号線に面した本館地区にあった古い食堂で開かれていて、
特殊株主も来たのかどうか、のどかな総会であったと思います。
初めての株主総会はただ見ているだけでしたが、次からは文書担当(法務担当)として
株主総会や取締役会を始めとする商事法務、商取引に伴う債権保全や担保取得、
代物返済で取得した土地の処分といった民事法務など文書法務業務一切を顧問弁護士や
三菱化成を始めとする三菱グループの総務の先輩に教えを請いながら何とか処理していたものと思います。
ただ株主総会招集通知や事業報告書など自分が原案を作製したものが僅かに手を加えられただけで、
外に出ることもありましたからやり甲斐はありましたものの、学生時代の不勉強がたたって、
苦労や失敗が多く、思い出しても冷や汗が出る感じですね。
同年10月には臨時建設部から平塚工場が正式に発足するということで、平塚に出張し、
工場長に就任される南部常務と打合し、組織分掌規則を作製した記憶が残っています。
S37年5月末の定時株主総会で、三菱樹脂への社名変更が無事承認されました。
1年後?には三菱グループの社長会である三菱金曜会への加入も承認されました。
当時、三菱モンサント、三菱油化、三菱レイヨンも存在していて、それぞれ三菱金曜会のメンバーでした。
それが三菱樹脂を含めて全て三菱ケミカルに一本化された現在を考えますと、
化学業界、いや産業界の大きな変革にはもの凄いものがあったと感慨深いものがあります。
私が入社した当時、独身寮は代々木にありましたが、新卒採用がこの年から急激に増え、
対応しきれなくなったため、三鷹の牟礼に借り上げでしたがテニスコート併設の新しい独身寮を建設中でした。
最寄りの京王井の頭線三鷹台駅の反対側には立教女学院があり、
独身寮の窓から眺めると玉川上水が見え、少し歩くと井の頭公園があり、
途中には作曲家の堀内敬三の住まいがあったように思います。
武蔵野の面影が残り、自然環境抜群でしたね。
私はこれが完成するまで高円寺にあった出張者宿泊寮に仮入居をしていました。
ここでの思い出は学生時代には一切やらなかったマージャンをやることになったことでした。
出張者や長期滞在者など先輩がやるマージャンのメンバー合わせで付きあわされたからでした。
当時サラリーマンにはマージャンがつきものだったようで、
私もそのうち丸の内の国鉄(JR) ガード下や駿河台下の雀荘などでよくやるようになりました。
弱ったのは酒でした。
最初のうちは余り飲まずに済ませていられましたが、
10年余の丸の内勤務を経て長浜工場に赴任した当時全国的に環境問題が激化していて、
コミュニケイションをはかるため、地域の方、役所、マスコミ関係などの方と酒を酌み交わしたり、
工場の仕事上の仲間と飲むことが多くなり、苦労の連続でした。
間を持たせるため、カラオケを覚えたり、吸わないタバコをプカプカふかしたりして頑張りましたが、
眠ってしまったり、酔って意識を失ったり、失敗の連続でした。
それと、長浜時代のもう一つの思い出は、滋賀県ではその頃琵琶湖の水を汚染から守り、
子々孫々に伝えるということで、全国に先駆けて合成洗剤の使用を規制する
琵琶湖富栄養化防止条例の制定をはかるなど環境保全への大きなうねりがあったことでした。
下水道はたった4%しか普及させてないのに工場の排水だけ規制してどうするんだと
県当局の人とやりあい、一方、社内ではその必要性を喧々諤々論じ合っていました。
各種の設備投資をやるかやらぬかで、「お前(私のこと)の言うことを聞いてると、
およそ社会の発展、文明の発展などなくなるぞ」と工場の技術屋さんから言われていたものです。
今その後の社会の動きを見、地球的規模で自然環境の保護が叫ばれているのを見ると感慨深いものがあります。
入社当時、本社事務所は、丸の内中通りの三菱仲28号館に入居していました。
丸の内北口からすぐの三菱信託銀行の裏手、日本工業倶楽部の斜め裏手でした。
2階に役員室、総務課、経理課、営業部、7階に企画部と総務課の株式係がいました。
総務、経理が同居していた部屋には冷房はなくて、設置されていたのは、電話交換室だけ。
交換機の保全のためだったと思います。
田舎者の私にとってはエレベーターですら珍しく、洋式トイレも使い方がよく分からず
考え込んだ記憶があります。
昼食は近くの蕎麦屋か丸ビルの竹葉亭やレストラン、新丸ビルのレストランを利用していたと思います。
本社事務所は、S38年に三菱電機ビルに移転、後に三菱ビルに移転しました。
これは三菱重工ビルと1階で繋がっており、後の三菱重工ビル爆破事件が思い出されます。
私自身はその直前に長浜工場へ転勤しておりましたが、昼休みに転勤前の職場の同僚の女性から
「地下の方で何かが爆発したようで、煙が立ち上っていて・・・」と泣きながら電話があり、
慌てて応接室へ走り、テレビで報道を見たのを思い出します。
いつの頃からか、会社の寿命ということが言われだしましたが、
戦後の1946年(S21年)2月10日の長浜ゴム発足からすると70年余り。
三菱樹脂の寿命はどうだったのでしょうか。
三菱ケミカルには化学工業界、いや日本産業界の雄として今後とも頑張って頂きたいものです。
記憶違いや勘違いもあるかもしれませんが、あくまで当時の会社の風景を俯瞰したものに過ぎません。
ご容赦下さい。
以上
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