「シニア夫婦の南米ぺルー旅行記」
後藤健二
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リマ・アルマス広場カテドラル前にて |
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ホームステイ先の家にて |
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マチュピチュ 3つの窓神殿前にて |
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クスコの市街地にて |
会社生活を終えた時に、家内への永年の罪滅ぼしに、外国旅行をすることをかねてから強要されていたが、小生の闘病生活にも一区切りがついたので、その快気祝と、体カ回復の証とするのも兼ねて、平成16年7月10日午後6時に、南米ぺルーをめざして夫婦で成田を飛び立った。
南米ペルーを選んだのは、ペルーから長浜に働きに来ているメルさんファミリーと10数年のお付き合いをしており、メルさんのご厚意でペルーの首都リマに、一ヶ月間ホームステイする機会が出来たためである。
家内はつねづね「マチュピチュ」を観たいと願っており、この機会にリマを拠点に、「クスコ」「マチュピチュ」「アスカの地上絵」「ピスコ」「バジェスター島」「アンデス山脈越えのオクサパンパ」等への旅行を計画した。
成田から20時間のフライトの後、7月11日早朝リマに到着した。日本は真夏の出発であったがペルーの気候は全く逆で、ガルーアと云うリマ特有の霧のかかつた、どんよりとした寒い冬空が我々を迎えてくれた。
マチュピチュへの旅は7月16日から19日まで3泊4日の計画で、リマのホルヘ・チャペス空港からインカの都であつたクスコに飛び、ここでで3泊してクスコを見学し、三日目の18日にマチュピチュへ向かう。
クスコから高山列車で約5時間、アンデスの山並みを走る。時には標高5,000m級の氷河のアンデス山脈が車窓に現れ、時にはアマゾン河の源流の一つであるウルバンバ河を望み、アマゾンの奥の深さに感嘆する。列車はこの渓谷に沿って曲がりくねって走り、リマとは全く違った緑豊かな風景を味わいながらマチュピチュに到着する。
マチュピチュの遺跡が発見されて、まだ100年近くしか経っていないので、まだまだ謎めいたところが沢山あるとのことだが、標高3,000m級の険しい山の稜線に空中都市を建設したインカ人は、どんな文明の持ち主であったのだろうか。
「マチュピチュ」とは先住民のケチュア語で「老いた峰」の意で、マチュピチュに面して「若い峰」と云う意の「ワイナピチュウ」がそびえている。スペイン軍が攻めて来る前に、一夜のうちに一万人余のインカ人が姿を消したと言い伝えられるが、そのインカ人たちが今でもワイナピチュウの奥の奥にひっそりと暮らしているのではないかなどと、想像をかきたててくれる神秘なアンデスの遺跡である。
何としてもワイナピチュウにも登ってみたかったが、非常に険しい稜線で、転落したらおしまいなので、家内の猛反対もあって望みは果たさず、心を残してマチュピチュウを後にする。
もう一つの旅の思い出は、ホームステイ後半の8月2日から6日まで4泊5日で、リマ東部のアンデス山脈を越え約500Km離れたパスコ県オクサパンパ地方へのバス旅行である。
オクサパンパはブラジル寄りで、リマの冬季のガルーアのうっとうしいどんよりした曇り空から開放された夏の季節であり、緑も濃く、燦々と輝く太陽の恵みを受けた台地である。途中5,000m級のアンデスの峠を越えたが、高山病に悩まされ肩で息する苦しみを経て、素晴らしい緑の別天地に辿りついた。
我々が滞在したところは農場で、そこでは電気・生活用水等は自家で賄っており、風呂は水風呂、食物の後処理は家畜や農園に還元し、自然のサイクルをまわす自給自足の生活スタイルをしていた。大げさかも知れないが、利便性とか、迅速性とか、合理性とか、そんな日本の生活スタイルを再考させてくれた忘れがたい旅となった。
一ヶ月は瞬く間に過ぎてしまい、8月9日に予定通りペルーのホルヘ・チャベス空港を立って、再びダラス空港を経由して無事8月10日に成田に戻った。
今回の旅行はホームステイで一国に長期間滞在し、表と裏の両面から、ペルーを自分の肌で感ずることが出来た。良いことや思わしくないことにも遭遇し、多くのペルーの人達と日常の生活を通してコミュニケーションがとれ、心の触れ合いを感じた旅行で、我々夫婦にとっては老後の一ページを飾る素晴らしい旅行であった。今後とも背伸びせずに気楽に「日・秘」の交流に努めていきたいという想いを抱いた「ふうふういった」旅行であった。
外国に行けば、美味しいものを腹一杯食べて、美味しい酒を飲んで、旅情に浸る楽しみ方もあるのだろうが、胃を無くした小生はその楽しみは半減というのが残念で、代わって家内はペルヘ料理やピスコサワー(カクテル)などを小生の分までお腹の中に収め、体重を増やしての帰国ということに相成った。
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