長浜支部「秋の歩こう会」

「関が原古戦場ハイク」

平成18年9月26日(火) 参加者 16名


 ( 顔の部分にマウスポインタを当てると名前が出ます 敬称略)
石田三成陣跡にて記念撮影
ガイドの説明によりいざ出発
黒田長政陣跡(丸山)

 9月26日(火)うす曇、絶好のハイク日和となる。
 ダイヤサービスの駐車場に集合、ここから車4台に分乗し「関ヶ原歴史民族資料館」に赴く。
 ここから女性ガイド加納さんの説明を受けながらの行動となる。
 館内で”天下分け目の合戦”についてパネルを使っての説明をうける。
 その中で「皆さん長浜から来られた人なのでよくご存知と思いますが、この戦いは小早川秀秋の寝返りにより勝敗が決せられました。これに同調したのが脇坂、朽木、小川、赤座の各陣営でいずれも、近江出身の武将です。」との説明、やや複雑な心境となる。
 館内展示品の解説を受けた後、いよいよウオーク開始。
 関ヶ原は”一里四方”と呼ばれるごとく東西4km、南北4kmの中に西軍、東軍合わせて16万人の 武将の戦いが繰り広げられた。各陣営の配置もそんなに距離はなく、陣営めぐりのウオークは 少しの高低差はあるものの、平地ののどかな田園風景を楽しみながら1日を過ごした。
 ガイドマップおよび案内標識もわかりやすく整備されており、また、事前に申し込めばボランティア ガイドも無料で案内をしていただけるとのことです。
 ウオーク終了後、長浜に戻り、有志による”軽く一杯”でのどを潤し、本日の予定を無事終了した。

 今回のコースは
 関ヶ原歴史民族資料館→黒田長政陣跡・丸山烽火場→決戦地→石田三成陣跡(昼食)→島津義弘陣跡→小西行長陣跡(開戦地)→宇喜多秀家陣跡→大谷義継の墓→壬申の乱の”黒血川”、”自害峯”→不破の関守跡→福島正則陣跡→京極・藤堂陣跡→西首塚→東首塚→徳川家康最後陣跡→民族資料館
 で距離としては約10km。

 主な場所のコメントは以下の通り
 ・黒田長政陣跡・丸山烽火場
  丸山(164m)に黒田長政と竹中重門が布陣し開戦ののろしをあげた場所。
  小高い山で古戦場全体が見渡せる。
 ・決戦地
  笹尾山の石田三成陣跡から500m程度の場所。西軍と東軍が最後まで戦った最大の激戦
  地。
 ・笹尾山・石田三成陣跡
  笹尾山(198m)に2重の竹矢来で囲み関ヶ原全体が見渡せ戦況が十分把握できる場所。
  前面に”島左近””蒲生郷舎”を配した。
 ・島津義弘陣跡
  石田三成と北国街道をはさんで南側に布陣。
  最後まで東軍と激戦。敗北が決まったとき、家康の陣前を敵中突破、伊勢街道を背進し逃れ
  る。
 ・大谷義継の墓
  石田三成の盟友、中仙道を家康軍が大阪に向かうのを阻止すべく、西軍部隊が到着する前
  から布陣。激戦を繰り広げ戦死。墓は江戸時代大谷隊を攻撃した藤堂家が建てたもの。
 ・壬申の乱の”黒血川””自害峯”
  意外に知られていないが、関ヶ原は西暦672年に起ったもうひとつの”天下分け目の戦い”
  である「壬申の乱」の戦場でもある。その遺跡がこの地にある。
 ・徳川家康最後陣跡
  最初の陣は桃配山であったが、戦況がよくつかめなかったことと、あえて激戦地に近づくこと
  で東軍の士気を高めた。笹尾山の三成陣まで約1km。

 参加者は次の16名でした。
  磯田 智、岩根信次、梶 道信、後藤健二、小林 守、柴田清廣、武内英之、外海金太郎、
  富岡秀雄、西沢芳朗、西島藤夫、馬場智章、武蔵秀夫、森川栄壽、安野孝美、世森幹治
                                        (磯田 智 記) 

決戦地 大谷義隆(義継)の墓
黒血川説明 徳川家康最後陣跡


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