第51回歩こう会「東京を歩く。自然教育園から泉岳寺」

平成18年4月21日(金) 参加者 26名

 ( 顔の部分にマウスポインタを当てると名前が出ます 敬称略)

 前日の嵐が去って、爽やかな天気に恵まれて気持ちのいい午後になった。
 集合場所のメトロ白金台駅は比較的新しい路線にあり、相互乗り入れ、乗継など初めての人が多く心配していたが全員無事集合。
 まず自然教育園へ。 新緑のケヤキの下で、国立科学博物館の萩原学芸員の説明を聞く。この場所は、江戸時代には水戸光圀の兄に当たる松平讃岐守の下屋敷の跡で、維新の後、火薬庫として、大正になって御料地として、一般人が入れなかったので豊かな自然が残ったという。
 武蔵野というと雑木林の自然林を思い浮かべる人が多いが、本来は文字どおり野原であった。江戸開府以前は野焼きをしてムラサキを採取していたのが、江戸の人口が増えるにつれ、燃料を供給するために雑木が植えられ造成林となったこと。植物相の変化の話。湧き水が作っている池の変化のこと。などなど、興味の尽きない話を聞きながら散策を楽しんだ。樹齢300年というクロマツの老木にわずかに庭園の名残りがあった。さわやかな自然をもっとゆっくり満喫したい気持ちを残して次へ向かった。
 自然教育園から目黒通りを清正公前までくだり、白金高輪の急階段を上ると旧細川邸、赤穂義士切腹の碑があり、今度は民家の間の細い路地を下ると泉岳寺であった。
 門前のみやげ物店、“義士堂”のおやじさんに泉岳寺と忠臣蔵の話しを聞く。満松山泉岳寺が正式名。江戸時代は、浅野家を含む5大名家だけが檀家という寺で、曹洞宗の修行の学僧を集めた寺であったという。
 門脇の内蔵助の銅像の容貌は歌舞伎役者のもので、実際は干した梅干のようだったという記録があるらしい。義士たちの多くは下級武士で、討ち入りまでの生活が大変だったとか。 討ち入りの装束もまちまちだったとか。 
 吉良邸から泉岳寺まで約10キロを2時間で引揚げ、道中は上杉の逆襲に備えた陣形であった。首級を洗った首洗いの池を見て、一同墓前に線香を手向けて合掌。義士の墓には切腹の後、首を抱えた状態の遺体が桶に収められ埋葬されているよし。
 自然教育園の辺りから品川にかけて、江戸時代は大名の下屋敷が連なっていたこと。 また目黒から白金さらに泉岳寺まで台地がつながって下っていて、第1京浜の外は海であったという地形が歩いてみて体感できた。
 泉岳寺前で一旦解散し、駅前の居酒屋へと場所を移した。小倉さんの発声で乾杯。渇いたのどにしみるうまい乾杯であった。 最後は荒木さんの締めで閉会とした。泉岳寺駅で相互乗り入れ、乗換えを確認してそれぞれ帰路についた。
 義士堂のおやじさんのHPに赤穂事件の資料やリンクがあり、興味のある方はお試しください。
 http://www1.ttcn.ne.jp/~gishido または、キーワードで“gishido 泉岳寺”を検索すると見えますよ。

 参加メンバー 26名
  荒木秀浩、石川晃司、石橋正康、市村義雄、小倉武司、加藤 進、神田 隆、木原仁博、栄 洋一、坂本堅一、高橋義衛
  谷口勝利、豊田安鴻、松内俊夫、宮下和久、山本 猛、山谷章浩、吉井 靖、石射祥光、伊藤敬輔、岩田幸三、石井 弘
  田中須賀男、田中英子、松林義明、下瀬英樹
                                                   加藤 進 記
自然教育園で萩原学芸員の説明を聞く 自然教育園内の湧き水の池
泉岳寺門前で、寺と忠臣蔵の話を聞く 説明は門前のみやげ物店のおやじさん
泉岳寺の門前にて 四十七士の墓に線香をあげる

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