八通関古道

 「新高山登れ1208」の意味が分かる人はOB会でも少数派になったが、この台湾の新高山の名は、明治天皇が明治30年6月に命名告示されたもので、それまでは清国人には「玉山」と呼ばれ、西欧人には「モリソン山」、原住民族には「パットンクワン」と呼ばれていた。現在は玉山の名に戻っているが、この玉山の北東に八通関と言う地名がある。原住民族が玉山を「パットンクワン」と呼んでいたのを、清国人がそれに「八通関」の文字を当て、その付近の地名としたものである。
 現在この八通関から東海岸側の玉里に通ずる台湾中部山岳地帯横断ルートがあり、八通関古道と呼ばれ、最近では、台湾の若者達にトレッキングの道(125km)として人気がある。トレッキングルートの一部は、日本植民地時代に理蕃道路と言われた台湾総督府の理蕃警察官の駐在所を結ぶ道路であり、ルートには今でも駐在所跡の幾つかが残っている。理蕃とはtaiwan native をcontrolするとの意味である。
 私はこの新高山や阿里山について、いろいろな思い入れがあり、最近このルートの下見に出かけてきたので、その報告をさせていただきたい。
 現在の八通関古道のスタートは東埔温泉で、昔の陸軍参謀本部陸地測量部の地図では「トンボ社」と表示されている原住民族の部落であったところである。
 私が参考にした台湾古道トレッキングの案内書(2005年6月発行)には、鄙びた温泉地で、露天風呂に漬かり、登山の疲れを癒している写真が掲載してあり、その情景を頭に描きながら車で到達した東埔は、想像と全くかけ離れた温泉レジャーランドに化けていた。幾つもの温泉ホテルが開業し、庭先には温泉プールがあり、水着姿の子供や大人達が湯に漬かっている。また、ホテルを開業するほどの資金のない者は、ロッジを建てたり、庭先にキャンプ用地をつくり、シャワー小屋を備えたりして、大いに儲けようという魂胆がみえみえの村になっていた。
 丁度土曜日で、川べりに設けられた駐車場には大型観光バスが何台も駐車していて、ホテルというホテルは満杯で、キャンプのスペースを確保するのがやっとというありさまであった。
 翌朝、陳有蘭渓にかかる和社橋から見上げると玉山の姿が間近に望めた。大変天気の良い朝で、玉山の姿がここから望めるのは珍しいとのことである。玉山主峰と北峰の頂上に雲がかかったり、消えたりで刻々と姿が変わる。
写真を撮り終え、いよいよ古道にとりかかる。
陳有蘭渓にかかる和社橋から玉山主峰と北峰を望む 東埔の八通関古道登り口の標識
古道 陳有蘭渓
谷の遥か彼方に八通関山を望む 雲竜瀑布
雲竜瀑布 雲竜瀑布
楽楽山屋(山小屋)  昔の理蕃警察官駐在所跡の石積み

 東埔から5.8キロ進んだところに昔の駐在所跡がある。現在は山小屋が建っているが、山小屋と言っても、日本の山の山小屋とは全然違い、登山道補修の作業員が器具を置いたり、宿泊するのに利用する小屋でもあり、中は空っぽでテントを張る代わりに、この中で休むことができると言うだけのものである。
 今回は古道トレッキングの下見に来ただけであるので、ここで引き返す。往路3時間、復路2時間で再び東埔の登山口に戻る。
 総督府が設置した理蕃道路の敷設以前に、清朝時代に敷設された八通関古道と言うのがある。
 牡丹社事件により1874年に日本の台湾出兵(台湾征討)があり、この時、清朝皇帝の特命(欽差)により沈葆驍ェ派遣されて、台湾の東岸と西部を結ぶ越山道路の計画をたてた。横断道路の建設に当たったのは呉光亮で光緒元年(1875年)から翌年にかけて11ヶ月で、現在の南投県竹山と花蓮県玉里を結ぶ全長152.64キロの道路を完成させたが、その後この道は放置されてしまった。
 東埔から車で21号線を北にすすみ、水里、集集を通って濁水渓に至ると、大きな水門の近くに清朝時代の八通関古道の起点となる遺跡「開闢鴻荒」碑がある。近くの鹿谷郷には呉光亮の銅像が建っていた。
「開闢鴻荒」碑  
清朝八通関道の遺跡(南投県鹿谷郷鳳凰谷鳥園内) 呉光亮の銅像(鹿谷郷 1998年建立)

尻切れトンボのレポートであるが、次回にはもう少し奥まで入り、台湾の山のすばらしいところをご紹介したいと考えている。
                        (黒川 亮 記)
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