東京地図
東京地図詳細図
カーチスP51戦闘機


  東京在住時
  父は昭和18年3月に退役し、同年4月に、出征前まで勤務していた三菱化成工業に戻ったが、
 6月に朝鮮・鎮南浦府にあった、子会社の三菱マグネシウム工業に配属になった。
 この会社は航空機製造に不可欠な金属マグネシウムを製造していた。
  その後約2年間、父は今で言う単身赴任だった。
  一方、私(9歳)・母(33歳)・祖母(74歳))・妹(恭子・7歳)の4人は、
 東京都世田谷区等々力に住んでいた。
  戦局は益々厳しくなり、昭和19年7月にサイパン島が陥落すると
 米B29爆撃機による東京空襲が始まり、日を追って激しさをましていった。
 それと共に、食料が段々手に入らなくなり、母はよく買出しや
 焚き木拾いに出かけて、家族の食事の確保に奮闘していた。
 私も時々、一緒に出掛けた。
  昭和20年の年が明けると空襲は一層激しくなり昼夜を問わす空襲警報が鳴った。
 それでも私が小学校3年の3学期迄は、細々ながら授業もおこなわれていた。
 状況が一変したのは3月10日の東京大空襲からで、私が通っていた尾山台小学校の隣の家が焼夷弾
 (註:米軍は昭和18年3月から焼夷弾の開発をはじめたと聞いている)
 の直撃を受けて全焼したり、集団疎開が始まったりした。
 4月になると学校は事実上の休校となり、4年生になってからは一度も授業はなかった。
 その頃両親と祖母の話し合いで、一家が離れ離れになっているよりもどうせ死ぬなら、
 一家同じところで死んだほうが良い
 (日本人は最後の一人まで戦い抜くのだと言う考えが浸み込んでいた為)と言う事になり、
 急遽、朝鮮・鎮南浦に引越す事になった。
 
  エピソード
  20年4月以降になると,南方の日本軍の陣地が相次いで陥落し
 米・機動艦隊が日本本土近くまで迫ってきて、艦載機による空襲がはじまった。
 私が最も恐ろしかったのは、学校が休みなので友達の家に漫画を借りに行った帰りに
 玉川の堤防を自転車で走っていた時のこと、警戒警報が鳴り直ぐに空襲警報が鳴った。
 (それまでの警報はサイレン音で、警戒警報から空襲警報までの間隔が、
 30分くらいあったのが、艦載機「カーチスP51戦闘機」が飛来するようになってからは、
 けたたましいベルの音で、横須賀鎮守府司令長官発令、警戒警報!!警戒警報!!
 そしてあまり間をおかずに空襲警報!!空襲警報!!と発せられるようになった)
 気が付くとすぐ後ろの上のほうから急にキーンと言う音がして
 乗っていた自転車の右側をババババッという音と一緒に土煙がはしった。
 敵機は急旋回して今度は私の左側に土煙がはしった。
 カーチスP51に機銃掃射されたのだ。私はもう必死で
 堤坊と住宅地の間にあったこんもりとした森に逃げ込んだ。
 そこには防空壕がありそこに飛び込んだ。
 空襲警報が解除になった後、その地区の隣組の組長さんが自宅まで送ってくださった。
 家に着くと、母と祖母が相当心配していた様子で出てきた。そこからが大変だった。
 組長さんが母と祖母に対して、空襲警報が頻繁に出されているこの様な非常事態のなかで
 子供を1人で外に出していたこと、堤防を自転車で走らせていたこと、
 等々懇々と厳しく説教をして帰られた。そのあとは私が、母と祖母からひどく叱られた。

 
東京空襲1 東京空襲2

朝鮮半島地図
鎮南浦地図
鎮南浦駅
鎮南浦市街地
鎮南浦市平面図

  東京を離れて鎮南浦へ
  20年5月3日に、等々力の家を引き払い、一晩、横浜市の伯父の家に泊めてもらい、
 4日に横浜駅から汽車に乗り2日位かけて下関に着いた。
 横浜から下関に着くまでの間、一度も空襲に遭わなかったのは、今にして思えば不思議である。
 然し、その日(確か5月6日)の夜、関門地域に大規模な空襲があり
 海峡一帯に相当な数の機雷が撒かれた。
 その為、翌日(5月7日)午前中に私達が乗船する予定だった関釜連絡船が出航出来なくなり、
 急遽その船を客を乗せないで博多港に廻航し、博多港から乗船させるという対応がとられた。
 なぜか夜になるのを待って下関駅から汽車に乗り、
 私にとって初めての関門トンネルを通り門司、小倉に停車。
 小倉が結構賑やかな街だという印象が残っているが、それ以外は記憶にない。
 明け方ちかくに博多駅ではなく博多港に近い、駅なのかどうかも判らない所で降ろされた。
 明るくなってから、下関から廻航されてきた関釜連絡船に乗船した。
 博多港からは、博釜連絡船と二隻一緒に出航し、釜山に向かった。
 上空を日本軍の戦闘機が一機,周りを駆逐艦一隻が護衛してくれていた。
 ところが航路の中間くらいの辺りで空襲警報が鳴った。これには本当に驚いた。
 逃げようは無し、隠れるところもなし、一発やられたらお終いだと子供ながらに観念したが、
 さほど経たないうちに解除になりほっとした。
 その後は、玄界灘の大荒れ以外は何事もなく無事、釜山港についた。
 釜山駅から汽車で平壌へ、そこから支線に乗換えて鎮南浦駅に着いた。
 但しどのくらいの時間汽車に乗っていたのか、何時ころに着いたのか全く記憶にない。
 駅にはバスが迎えに来ていたが、そのバスがとてつもないおんぼろバスで、
 アセチレンを燃料に使っているのだがパンパンと大きな音がして、
 しょっちゅうエンストを起こして止まり、
 1時間位かけて市の郊外に位置する麻沙町の社宅に着いた。
  翌日、母につれられて,鎮南浦旭丘国民学校に転校の手続きに行き、
 初等科4年菊水隊(組の名前が全て何々隊と名付けられていた)に転入した。
 約3ヶ月振りに学校に入れて貰えたのは嬉しかった。
 新しくできた級友達からは、東京の空襲はどんなだったとか、
 B29はどのくらいでかいのとか、皆の興味は空襲のことに集中していた。
 そこでカーチスP51に機銃掃射された話をすると、よく逃げられたねとか、
 弾に当たらなくて良かったねとか、怖かっただろうとか、暫くその話で持切りだった。
 校長先生や担任の先生からも、空襲の話や集団疎開の話、
 学校が休みになってからどう過ごしていたのか等の話を聞かれた。
 唯、今にして思えばこの学校では全てが軍国主義的で分列行進や行軍の訓練が度々行われた。
  それと校長先生から時々呼び出されて、私が坊主刈りではなかったものだから、
 よくそんな長髪が東京の学校で許されていたな、とか早く丸坊主にしてくるようにと注意された。
 担任の中西先生は一言も何も言われなかった。
 先生は体は小さかったが、若くてきびきびしていて、すぐに大好きになった。
 海軍兵学校を受けたけれど落ちてしまった、次はぜったい受かってみせる、と張り切っておられた。 
  「江田島健児の歌」(海軍兵学校の歌)を時々歌って聞かせてくれた。
 鎮南浦は空襲が全くなく、すこぶる平穏だったし、食糧事情も問題なく、
 贅沢さえしなければ三度の食事に事欠く様なこともなかった。
 たまには鎮南浦の街へ朝鮮冷麺を食べに行くこともあった。
  学校も普通に授業が行われていた。通学は、例のおんぼろバスで、
 エンストの時間も入れて1時間以上掛かるのを覚悟で行くか、
 山越え(といってもそんなに高い山ではなく丘越え)で途中、
 松林やりんご園の横の小径を通って、30分位歩いて行くかの
 どちらかだったが、私は雨の日以外は山越えで通っていた。
 往きは集団だが帰りは一人の時もあったが、特に怖いようなこと、危険なこともなかった。 
  北朝鮮は梅雨もなく、快適な日々を過ごしつつ夏休みを迎えた。
 夏は日本の気候とほとんど変わりはなく、パンツ一枚でヤンマを追っかけまわしたり、
 近くの池で魚釣りなどして遊んでいるうちに、運命の8月15日を迎える事になる。
 
 
  8月15日から社宅明け渡しまで
  いよいよ運命の8月15日がやってきた。
  その日は朝からラジオ放送で、本日正午から重大発表が
 放送されるということが、繰り返し予告されていた。
 お昼近くになると近所の朝鮮人部落の人たちが家の前の道路にぞろぞろ出てきて、
 正午から重大放送があるそうだが、自分たちはラジオを持っていないので、
 うちのラジオを聞かせて欲しいと言う。
 家の南側に小さな庭があり、その先、
 大人の背丈位低いところを幅2m位の道路が通っていた。
 そこで、庭の一番端にラジオを置きコードをいっぱいに伸ばし
 ボリュームを最大にして皆が聴けるように設営してやった。
  しばらく経って正午の時報と「ただ今から玉音放送がございます。」
 のアナウンスに続いて君が代が演奏され玉音放送が始まった。
 私・母・祖母・妹の四人は縁側に座って聞いた。
 難しい言葉遣いや音のひずみ、雑音のために内容はほとんどわからなかった。
 ただ「堪え難きを絶え、忍び難きを忍び」の部分だけは聞きとれた。
 それを聞いても日本が戦争に敗けた、とは全く思わなかった。
 本土決戦の覚悟を促す内容だと思った。それは母も祖母も全く同じであった。
  しかし家の前に集まっていた朝鮮人達は、
 「勝った勝った日本は負けた」と大声で騒ぎ出していた。
  そのころ、父は工場で朝鮮人従業員達が、
 「朝鮮が勝った日本が負けた」と騒ぎ出したため、軍刀を抜いて
 (父は18年3月まで北支の前線で兵役に就いていて、
  将校で退役後も軍刀を持っており、工場へも持って行っていたようだ)、
 おまえら静かにしろ!まだ何も変わっておりゃせん!と工場内を鎮めて回り、
 3時ころ一旦家の様子を見にきて、また工場に戻った。
 そのころには家の前の騒ぎも収まっていた。
 夜になり父が帰宅。工場と社宅に一応自警団を置いたが、
 暫く警戒を怠らず、様子を見るしかないだろうとのことだった。
 その夜は社宅周辺では朝鮮人の不穏な動きはなかったが、
 後で聞いた話では、街の中心部では朝鮮人の大集団が、
 日の丸に手を加えた太極旗(現在の韓国の国旗)、
 を掲げて「マンセー、マンセー(万歳、万歳)」とさけんで練り歩いたとの事であった。
  その後2週間位は平穏な日々が続いた。
 隣の朝鮮人部落の子供たちとも、それまでと変わらず一緒に遊んだりもしていた。
 ただ後になって思い出すと、ゾッとするような事態が一つだけあった。
三菱マグネシウム社宅周辺風景

  というのは、ソ連軍当局から日本人に対して、刀剣類を全て供出せよとの通達があった。
 我が家には父が持ち歩いていた軍刀の他に先祖から伝わった,
 桐箱に入った名刀一振りと小刀一振りがあった。
 ソ連軍に供出する為に家の中の手近に置いてあったのだと思うが、
 ある日朝鮮人の子供3〜4人と、うちの庭先で遊んでいるときに、
 少し年かさの子が日本刀を見せて欲しいと言い出した。
  私は何の警戒心も抱かず小刀を持って来てみせてやった。
 相手は日本刀の抜き方を知らなかったので私が抜いて見せてやったところ、
 ちょっと持たせて欲しいと言うので、いいよと持たせてやった。
 その子はキラリと光る刀身をみて、切れ味がよさそうだねぇとか言いながら
 他の子たちに見せびらかしていたが、そのうち「ありがとう」と言ってかえしてくれた。
 相手がその気になってばっさり切りつけられていたら、と思うとぞっとするが、
 まだその時期には大人も含めて、
 朝鮮人との間で敵対する様な関係にはなっていなかったのが実状であった。
 8月下旬、官公庁や日本企業は朝鮮人に接収された。
 ある日ラジオから「蛍の光」の曲が流れ、その後は朝鮮語の放送になった。
 その後もよく「蛍の光」が流れてきた。
 何となく国歌の代わりに使っているような印象をうけた。
  その頃、北朝鮮では朝鮮建国準備委員会なる組織ができ、
 その下に地方組織として人民委員会なるものができた,と後になってから聞き及んだ。
  ある日、「朝鮮は北緯38度線を境にソ連と米国によって分割占領される」というニュースが入ってきた。
 いつソ連軍の支配下に入り、共産主義体制に移行したのかは郊外の社宅にいたのでよくわからなかった。
 後になって判った事だが1945年9月中には北朝鮮全域へのソ連軍進駐が完了したのだ。
 
三菱マグネシウム社宅

  エピソード
  三振りの日本刀にまつわる話だが、小刀は父からお前に任せるので刃をボロボロにしてこい
 というので社宅の裏の山に入って松の木やら雑木を手あたり次第に切りまくって父にわたした。
 軍刀は父が自らどうやったのかは知らないが見事に刃をボロボロにしてきた。
 先祖伝来の名刀はソ連なんかに呉れてやるのは口惜しいので、
 桐の箱を油紙で幾重にもくるんで夜中に、父と母とで近くの池に沈めに行った。
 翌早朝、見に行ってみると、先のほうが池の面から出ていたので、
 重りをつけてより深いところへ沈めてきた。
 9月のはじめころソ連兵が日本人の住宅を回って、日本刀の接収を始めた。
 例の軍刀と小刀を供出せねばならなかったが、そのまま持って行かれるのは、
 あまりにも悔しいので、屋根に登って、ゴム銃に投げ玉をこめて、
 下からは見えない位置に身をひそめて、ソ連兵を待ち構えていた。
 程なくして鉄兜に剣付き銃を肩にかけたソ連兵二人が玄関先にやってきた。
 母が日本刀二振りを渡そうとしているその時にゴム銃を引き絞って撃とうとしたが、
 ソ連兵の鉄兜と剣先がキラっと光ったのに一瞬たじろいでしまい、結局のところ一発も撃てずじまいだった。
 
  社宅の接収とその後の生活
  9月6日朝、軍用車両で乗り付けたソ連軍将校から、「72時間以内に社宅を明け渡して
 街の中心部に移る事、持ち出す荷物は一軒当たり馬車一台に限る事」を命令された。
 我が家は、鎮南浦府の中心部にあった妹の担任の先生
 (佐藤先生)のお宅の一間を間借りする事になっていた。
 他の人たちもそれぞれのつてで移転先をきめていた。
 9月8日に社宅を出ることになった。
 

  エピソード
  私が住んでいた家の前は、狭い道路(もちろん舗装などもなく荷馬車がやっと通れるくらい)
 でそこから一段下がったところには田圃や畑や池があり300m位離れた対岸に部落と離れて
 ポツンと一軒朝鮮人の家があり、そこに私と同い年の男の子が居た。
 何故かその子と気が合って時々遊んでいた。
 私が、社宅を出る前の日、その子を呼んで、私の玩具やら父が持っていた野球のボールやら
 荷馬車に積めないものをその子にあげた。
 とても喜んでくれた。それから数ヶ月後、鎮南浦の街でその子と両親の三人とばったり出会った。
 こちらも母と妹の三人だったように記憶している。
 その子の父親が「上野さん一家が街のどこに移ったのかずっと探していたのですよ、
 やっと会えて良かった」と言って、早速近くの朝鮮冷麺屋でご馳走してくれた。
 その後も移転先を時々見舞ってくれた。
 あまり良い思い出のない抑留生活の中で、唯一の心温まる思い出である。
 
  9月8日、早朝から多数の朝鮮人が監視する中で社宅を退去した。
 小さな朝鮮馬が曳く大八車程度の百台位の馬車と、高く積み上げた荷物を手で抑えて
 付き添う人たちの長い列は、我々の敗戦による抑留生活の苦労の始まりを象徴していた。
 その日の午後、うちの家族は、神社近くの佐藤先生(妹の担任の先生)のお宅の一室に落ち着いた。
 そのお宅は洋風で部屋数も多く立派な家だった。
 ところがそれが仇になった。
 私たちが落ち着いて一週間たつか経たないうに、朝鮮人民委員会の幹部が、
 その家に目をつけ、接収命令を出した。
 我が一家も佐藤先生一家も追い出されて、それぞれ間借り先を探さねばならなかった。
 先生一家がどこに移られたのかは記憶にない。
 うちはやっと次の間借り先を探して移ったものの、そこも数日で接収され、三度目にしてようやく、
 三和町にあった「原金」(たぶん、原田金三商店というのが正式名称だったと思う)
 という手広く材木店を営んできた家の二階の一間に落ち着いた。
 この家は木造二階建てで見かけは良くないので接収を免れたらしいのだが、
 部屋数も多く、うち以外にも数家族が間借りをしていた。
  後で判った事だが、朝鮮人民委員会の幹部が日本人の立派な邸宅を片っ端から接収して住んでいたところ、
 ソ連軍が本格的に駐留し始めると、ソ連軍の幹部が、そういった家を次々と接収して自分たちの住居にしていった。
 「原金」の家は道を隔てて右側の邸宅を司令官、左側の邸宅を副司令官が接収していた。
  当時日本人にとっての最大の不安は治安問題で、夜になると武装ソ連兵が日本人の家に押し入って
 金品を強奪したり、女性を襲ったり、といううわさがしょっちゅう飛び交っていた。
 そういう点では「原金」の場所は結果的に良い所だった。
 それでも時々、ソ連兵が日本人の部屋に入って来て時計や万年筆を強要することがあった。
 やむなく時計や万年筆を渡すこともあったが、一週間位すると壊れた、もっと良いのをよこせといってくる。
 時計の巻き方も知らないし、インクの入れ方もわからないような連中ばかりだった。
 日本人は皆、ロスケといって馬鹿にしていた。
  日本人は、就学、行商を含む一切の就業、及び市外への移動を禁止されたが、
 一般の朝鮮人の日本人に対する態度は冷静で治安はさほど悪くなく、外出は自由だった。
 駅近くの広場に闇市場が開設されて様々の食料品を自由に購入できた。
 その中にはアメリカから入ってきたと思われるチュウインガムやチョコレート等も沢山ならんでいた。
 日本人だからといって不愉快な目に遭う事はなかった。
  ソ連軍が駐留するようになってからは、朝鮮人民委員会もあまり表面に出てこなくなった。
 ソ連兵達は、朝鮮人を日本人より一段低く見ているような感じを子供心にも強く抱いていた。
 朝鮮人のことをナップーと呼んでいた。
 朝鮮語のナップン サラミ(だめな やつら)からきていたらしい。
 

  父、刑務所収監とシベリヤ方面へ連行
  ところが、そんなある日(20年9月下旬頃)、大事件が起こった。
  父が突然、人民委員会により捉えられ、刑務所に収監されたのである。
 すぐさま母と面会に行った際、父は終戦の日の軍刀抜刀の件が仇になったか、と言っていたが、
 実はそうではなく、元軍人や一部の日本人有力者数人が,同じ日に収監された。
 それからはほぼ毎日、差し入れ品や着換えをもって、面会に行った。
 罪状や刑期もわからず、時だけが過ぎていった。
 その間、父が特に暴力を受けるようなことはなかった。
 母は時々、刑務所の何人かにこっそり、袖の下を掴ませたりしていた。
 その甲斐があったのか、ある日(10月上旬頃)刑務所から急ぎの使いがきて
 「上野さんがソ連軍に拘束され鎮南浦駅から貨車で北の方に、連れていかれようとしている。
 早く駅に行かないと」と知らせてくれた。
 私と母二人で大急ぎで駅に駆け付けた。
 駅に着いたときには列車はすでに動き出しており、会話を交わすことはできなかったが、
 私と母の叫び声は届いたのか、こちらに向かって手を振る父の姿が
 段々小さくなっていくのを茫然と見送るしかなかった。
 その時の哀しみ、寂しさ、虚しさは今も忘れることはできない。
  それから瑶として父の消息は判らないまま、
 残された家族として何の手の打ちようもないまま時間だけが虚しく過ぎた。
 不安が募るばかりの状況のうちに年が代わって昭和21年を迎えた。
 依然父の消息は全く分らないままであった。
  それ迄にも前年10月に設立された日本人会や朝鮮人民委員会に
 行先だけでも探って呉れるよう頼みこんだが、両者とも手掛かりすら掴めないとの返事であった。
 そこで私と母と祖母の三人で相談して最後の手段として思い切って、
 隣の司令官宅を訪ねて、司令官夫人に父の消息の調査を依頼してみては、と云うことになった。
 早速母が手土産をもって司令官宅に夫人を訪ね、いきさつを話したところ
 好意的且同情的に話を聞いてくれ、出来るだけのことはしてあげましょう、との反応であった。
 数日後に司令官宅から連絡があり母が出向いた。
 司令官夫人の話では、日本軍関係者はシベリヤ方面に移送するよう軍の上層部から指令がきたこと、
 場所は言えないがシベリヤ方面のどこかで、裁判を行うことになっているとの事であった。
 少なくとも銃殺されたり、処刑されたりはしていないニュアンスが伝わってきたのは確かで、一家全員少しは安心した。
  21年1月も末近くのある日、私が家から少し離れたところで遊んでいると、
 原田家の少し年上の子が私をさがしにきて、お父さんが帰ってきたよと告げてくれた。
  本当!と叫びながら急いで家に帰ると、本当にそこに、髭ぼうぼうでやせこけてはいたが紛れもない私の父がいた。
 まだ寒いさなかの鎮南浦であったが何だか春が来たような気持ちになったのを今でも鮮明におぼえている。
  父が着ていた衣服や防寒着や防寒靴・防寒帽に至るまで、まさにシラミの巣窟であった。
 帽子と靴は母がすぐさま焼却したが、衣服や防寒着は当時貴重品だったので、
 ドラム缶に水を入れ底から薪で沸騰するまで熱して、煮沸消毒を施した。
  その夜は一家全員で父の帰還を祝ってささやかなご馳走の夕食会をした。
  父はあの後、列車で満州南東部、鮮満国境近くの延吉まで連れていかれ、
 収容所に抑留され毎日のように、凍てついた道路の工事や雑木林の伐採作業の使役に駆り出されていた。
 ところが、20年12月31日の正午ごろ、急遽軍事裁判なるものが開かれ、
 父を含めて6人が軍役をはなれて2年以上になるということで無罪釈放を言い渡された。
 6人共に一瞬あっけにとられると同時に、大変なことになったとの思いを皆同じ様に抱いたとの事。
 それもそのはず、朝食を摂っただけで、一粒の食糧も一銭の金もなく、まったくの着の身着のままで、
 厳寒期の零下30度にもなろうという雪の荒野に放り出されたわけであるから。
 留まるという選択肢はない。
 ならば,さまざまの危険や困難を乗り越え鎮南浦をめざしひたすら南へと歩くしかない。
 そう心に決め6人で助け合いながら、鎮南浦に向かって歩きはじめた。
 20年12月31日大晦日、この年が暮れてゆくのもあと僅かだったという。
 会寧から茂山嶺を越えるルートを辿ったとの事。
 途中朝鮮人の農家に泊めてもらったり、食事をめぐまれたり、
 着ていたものや靴をもっと粗末な物に交換して現金を捻りだしたりしてようやく、羅南にたどり着いた。
 そこからソ連の貨車に便乗し鎮南浦に帰り着いた。
 ただ途中の駅や貨車の中で、寒さと栄養失調、それに発疹チフスのため、
 6人の同道者のうち3人が亡くなり、帰り着いたのは3人だけになっていた。
 
  父ソ連軍事病院に入院
  ところが父も帰宅後2日目頃から40度の高熱を発し、日本人の元医師に診て貰ったところ
 発疹チフスだと診断され、ソ連軍の病院に隔離された。
 病院は家から鎮南浦駅の反対側の海岸からはすこし離れたところにあった。
 母はソ連の病院でなにをされるか分かったものではない、と日本人の元医師や薬局を訪ねまわって、
 消毒液、脱脂綿、注射器具一式、ブドウ糖液アンプル、カンフル剤アンプル、リンゲル液アンプル、
 生理食塩液アンプル等を買い集めて、こっそり父の病室に持ち込んで隠した。
 この病院は短時間の面会以外は付添の看護など一切認められていなかったが
 母は毎日泊まり込みで看病にあたった。
 始めのうちは、隠れ隠れ、そのうちに先方も薄々感付いたようだが見て見ぬふりをするようになっていった。
 病院は終戦直後までは日本人が運営していたのでとても良い環境で、清潔感は十分に感じられた。
 私と妹はほぼ毎日、祖母は2〜3日に一度くらい見舞い行った。
  始めのうちは、病院の正面入り口から入っていたが、手續が面倒なこと、
 言葉が通じないこと、短時間で帰らされること等から途中からは、父の病室の裏が広い池で、
 冬の間は池面が凍結しているので池面を歩いて渡り、病室の窓から出入りするようになった。
 父の病状は、熱こそ少しは下がったものの、体力が落ちていた為,なかなか快方に向かわなかった。
 母は日本人の元医師と相談しながら(連絡係はいつも私)持ち込んだ薬を注射していた。
 入院して3週間くらい経ったある日、母から父の病は今夜が峠らしいから祖母と妹を
 呼んでくるように言われたのですぐさま家に帰り祖母と妹を伴って再び病院を訪れた。
 四人で父を囲むようにして見守っていたが特に変わった様子は無かった。
 時々父の鼻のところに手をかざしたりもしてみたが、普通の呼吸のようだったので少し安心した。
  夕方頃ソ連の医者と看護婦の出入りが頻しくなった。
 父の容態が悪くなったのかと心配になったが、私たちは少し離れたところから見守るしかなかった。
  医師たちはいろいろな処置を終えて部屋を出ていった。
 出ていく時に身振り手振りで、今のところ心配ない、何かあったら呼びなさいというようなことを言ったように感じた。
 夜も更けてきて、私と妹は壁際にしゃがみこんで、うつらうつら眠った。
 母と祖母は交代で見守っていたようだ。明け方近くになって私と妹は母の声で起こされた。
 「お父さん大丈夫だったよ。甦ったよ。」と言われて父の顔を見ると、
 心なしか青白さがなくなり生気が戻ったような気がした。
  私には峠を越えるという意味が分からなかったのだが、人間、生死の境をさ迷っている時に、
 こちら側におちるか、ほんの少し上の峠のむこうがわに越えられるかで、
 生と死が分かれるのだという事を全身で感じ取った瞬間だった。
 その日から父は日を追って回復に向かい、それから1週間足らずで、退院となった。
  季節は、3月に入っていたが、鎮南浦はまだ寒く病院の裏の池の氷もぜんぜん溶けていなかったが、
 わが家には久しぶりの春がやっと来た、と心から思える日であった。
 
鎮南浦駅2

  エピソード
  鎮南浦、街なかの朝鮮人の子供たち
  社宅にいた時は近所の朝鮮人の子供たちとも結構仲良く遊んでいたが
 街に移ってからは、一緒に遊ぶことは全くなかった。
 公園や原っぱで、別々の群れで遊んでいることはよくあったが。
 朝鮮人の子供達が数人で遊んでいる所へ一人で行くと喧嘩を売られたり、
 いじめられたりする事が段々多くなっていった。
  朝鮮人の事子供たちが集まっている場所は、通りの辻だとか、
 そのなかの誰かの家の前とか小さな公園の中とか、色々な所に在って、
 そんな所を一人で通りかかろうものならひどい目に遭うのが当前のことになっていた。
 それで友達の家に遊びに行くのにもわざわざ遠回りをしていかねばならなかった。
 父の病院へ行くときも危なそうな所は全て避けて通って行った。
 海岸に沿った倉庫街辺りが比較的安全だったが、倉庫が多く立ち並んでいる辺りは
 必ずソ連兵が警備しており、何度か銃を突き付けられたが、
 大きな声でヤポンスキー!ヤポンスキー!(日本人、日本人)というと、笑顔で通してくれた。
 後で聞いた話では、そのあたりの倉庫にはソ連軍が日本軍から押収した米、小麦、落花生などの
 食糧がいっぱい詰まっていて、それを朝鮮人が時々盗みにくる。
 それで、厳しい警備をしていたのだ。
鎮南浦港灯台

 
  灯台で釣り糸を垂れ平穏なひと時
  そんな事情で家の近く以外だんだん遊ぶ所が限られてきた。
 そんなある日、駅の裏の海岸通りをぬけてしばらく草原の中の小径を行くと
 港の突端に灯台がある所へ行きついた。
 そこには人っ子ひとり居なかった。ここなら安全だし、景色も良いし、
 遊び相手がいない時には そこへ行くことにした。
 手ぶらではつまらないので、手ごろな竹を切ってきて竿をつくり、
 海岸で拾った破れた網をほどいてつなぎ合わせて釣り糸にし、
 町工場跡から拾ってきた細い針金で釣り針を作った。
 餌になるゴカイは、海岸の泥を掘ればいくらでも取れる。
 手製の釣り道具らしきものを持って灯台へと向かった。
 少し寒かったが、天気も良く、ほとんど一日をそこですごした。
  その日以来、晴れた日には灯台に行き、釣れもしない釣り糸を
 垂らしてのんびりしたひと日をすごすのが日課になった。
 今になっても、谷村新司の「いい日旅立ち」の♪岬のはずれに 少年は魚つり 
 青い芒の小径を 帰るのか♪の箇所を聞くと遠いとおいあの日々のことが思い出される。
 
ソ連兵門衛

  エピソード
  ソ連兵のこと
  @ うちの前の三和通りは結構広い通りで、そこで時折、ソ連軍の分列行進が行われた。
 ソ連兵の行進の歩き方は膝を曲げずに真っ直ぐ伸ばしたまま歩くので、
 何とも不自然でぎこちなく勇ましさとは程遠いものであった。
 それどころか、寒い時期は路面が凍っているので列の中の何人かは
 時々滑って転んでしまう事もよくあった。
 見ていた我々日本人はあれでも軍隊の行進かと大笑いしたものである。
 また、全員歌いながら行進するのだが、その歌があまり勇ましくない。
 それもそのはずその歌は、のちの平和になった日本の30年代後半に
 歌声喫茶などで歌われた「カチューシャの歌」つまり、当時のソ連の流行歌だったわけで、
 軍隊の分列行進に流行歌を歌うなど、私からすれば信じられないことである。
  A うちの右隣の司令官宅つまりは司令官官舎の入り口には門柱が
 2本あり門衛が二人警護に就いていた。
 その二人の門衛の態度が実にだらしなかった。
 マンドリン銃と俗称されていた軽機関銃をだらしなく左肩に掛け、
 門柱にもたれたまま、右手をズボンのポケットに入れてはヒマワリの種を
 口に放り込み口の中で巧みに殻を剥いで自分の周りに吐き散らかす。
 それを任務の間中ずっと続けているものだから門衛の周りはヒマワリの食べかすだらけ。
 門衛が交代しても次のがまた同じ事をやるので、門柱の周りはいつも食べかすだらけだった。
  このような出来事を見る度に、祖母が「あんな軍隊に日本が負けたのではない」
 と強い口調で言っていたのを今でも思い出す。
ソ連軍マンドリン銃(軽機関銃)

 
  引き揚げ計画
  昭和21年の春になっても日本への、引き揚げの話は全くなかった。
 20年の秋頃までは、日本から引き揚げ船が迎えに来てくれる、
 という話が時々出ていたが全て噂にすぎなかった。
 しかも鎮南浦港は11月半ば頃から3月半ば頃まで海が凍結するのでその間は実現は望めない。
 ようやく春が来たのに引き揚げの話が出てこないことに日本人の間で焦燥感が出始めていた。
 南朝鮮からは、日本から迎えの船で日本人が次々帰国しているとの情報も入って来ていた。
 日本人会も決して手をこまねいていたわけではなく北朝鮮当局(人民委員会)に再三にわたり
 正式帰還を願っていたが中々北朝鮮側から前向きな回答が得られなかったのが実情であった。
 後になって調べてみたところでは、ソ連の思惑や米ソ間の占領政策の問題、
 更に大きくは米ソ両大国の国際問題(米ソ冷戦の芽生え)まで背景にあって、
 北朝鮮当局としては全く手の出せない問題であったわけである。
 (註:正式帰還とは、ソ連と北朝鮮当局が日本からの引き揚げ船の入港を容認し、
 抑留日本人が公に乗船ををみとめられること。
 22年の6月頃からようやく条件が整った場合に限り実施されるようになった。)
  国破れて山河在りというが、祖国が破れて祖国以外に置かれた人間にとっては
 安心して暮らせる山河はないのだ、
 人一人の命など国と国の争いの前には、どうにでもされてしまうのだ、
 という事を身をもって思い知らされたのであった。
  日本人会も無力のまま何もしてなかった訳ではなく、
 いろいろな方面から情報を集めたり、他の市の日本人会と情報交換をおこなったり、
 幹部以外の一般の日本人とも意見交換を行ったうえで一定の結論を駄出した。
 それは日本からの引き揚げ船を待っていても可能性は低い。
 しからば、徒歩で南朝鮮に向け脱出するしかないというものであった。21年4月中旬の事である。
  鎮南浦から北緯38度線までの距離は直線にして約130km。
 平壌回りだと更に距離が延びるうえに、平壌にはソ連の軍司令部(北朝鮮全土を管轄)があり
 日本人の脱出を認めていないとの情報があるので、このルートはダメ。
 しからば、こちらもそう簡単ではないが、港のすぐ南の幅広い大同江を多数の小船で
 船団を組んで対岸に渡り、そこから徒歩で南朝鮮を目指す。
 これが脱出計画の概要である。
 ずっと後になって知った事だが、この時数人の若い人達が密かに鎮南浦を出て脱出経路の下見と、
 南の受け入れ態勢の確認に行っていたとのことであった。
  この計画の対象者は、満州からの疎開組8千人と鎮南浦在住者8千人合わせて1万6千人。
 この人達をいかに無事に南朝鮮に脱出させるかという壮大なものだった。
  このころまでには、満州からの疎開組会と日本人会の一体化がなされており、
 この計画を成功させるための知恵が様々な方面からだされた。
  その中身は班の編成が主題となった。一班何人位が適切か。
 体力のある人、普通の人、弱い人をどう組み合わせるか。
 家族の単位を崩すことは出来ないのでそれも考慮に入れた上でどうするか。
 どうやっても強い班と弱い班が出来てしまうがそこをどうするか。
 様々な意見が出された中で貴重だったのは、満州からの疎開組の経験だったと聞いた。
  結果的には一班60人から100人位の編成におちついた。
 行動する際にはなるべく5〜6班が纏まっていた方がより安全だというアドバイスもあったようだ。
  5月下旬頃から脱出がはじまった。毎日500人〜700人が多数の小船で出発した。
 計画された脱出は順調に進んでいたところ6月上旬に当局によって出発が禁止された。
 各地でコレラが流行したためである。
 鎮南浦でもコレラ患者が出て我々も予防注射を受けたが、日本人からは一人の発病者も出なかった。
 
  妹の誕生
  そうしたなか、我が家では素晴らしいことが起こった。
 6月21日に末の妹が生まれたのだ。美智子と名ずけられた。
 母乳も順調に出てすくすく育っているのを見るとホットした気分になった。
 ただ後日考えてみると、母は、父の刑務所入り、延吉からの帰還までの家族の生活の維持、
 発疹チフスの看病と、ずっとその間、身重だったのだと思うと母は本当によくがんばったと、
 今にして感謝の気持ちでいっぱいである。
 
  引き揚げ再開
  引き揚げの方は、コレラが終息したので日本人会は残っている1万人あまりを
 脱出させる計画にたちかえり、野宿が可能な9月中に完了することになった。
 ところが父が8月1日付けで、北朝鮮当局の平南化学工業管理局に嘱託として徴用されてしまった。
 条件は、妻と乳飲み子は父と一緒に残れ。私と祖母と妹は帰国を認める(黙認する)というものであった。
  祖母は当時75歳、私と妹は本来ならばそれぞれ5年生と3年生だがもう1年以上学校に行っていない。
 朝鮮の学校に入ることも出来ない。あと何年抑留される事になるかも分からない。
 さんざん相談して出した結論は、私と祖母と妹の3人で脱出するしかないという事であった。
 嘱託で抑留される技術者は父以外にも20人以上いたが、皆それぞれに家族の問題で悩んでいた。
  私たちは、特別班に入ることになった。
 この班は抑留技術者の親や子供たちとその道中を託された人たち、
 三菱マグネシウムの常務取締役工場長だった清水禮三氏とその夫人など60数名の編成で、
 どちらかというと年配者や女子供が大半を占めていた。
 なかでも、うちの祖母が最高齢であった。
 
  鎮南浦からの脱出
  私たちは脱出再開後第一団として、昭和21年9月1日に出発する事になった。
 私と妹と祖母は手製のリュックサックを背負って岸壁に向かった。
  父と美智子を抱いた母が見送りにきた。
 8時ころ岸壁についた時に少し小雨が降ってきたのを憶えている。
 岸壁は大勢の人でいっぱいだった。
 船は荷物を運ぶ小型帆船で、同じ様な船が十隻以上停泊していた。
 我々の班以外にも数班が、対岸に渡ることになっていたのだ。
 順番が来たので、三人で手をつないで,そのうちの一隻に乗り込んだ。
 両親が心配そうにこちらを見ているのが目に留まって涙が出そうになった。
 船倉はあまり広くはなく30人くらいでいっぱいになった。
 我々の班は二隻に分乗したのだった。
 乗船はしたものの、午後からしけてきて船は一向に出帆しなかった。
  船は大きく揺れていたが動き出した感じはなく私はいつの間にか眠っていた。
 目が覚めると夜が明けていた。
 
  母の脱出決死行
  その時船の上の方からリュックサックが一つ降りてきた。
 続いてあかんぼうが、そのあと母が降りてきた。
  我々の乗った船は、しけ(小嵐)の為出帆を見合わせており、それを知った母が急ぎ荷物をまとめ
 美智子を小脇にに抱いて夜明け前の薄闇に紛れて脱出してきたのであった。
  私たちの乗船を見届けた後も、両親は、これからの道中のことを考えると、心配ばかりがうかんできて、
 どうして3人で行かせてしまったのだろうと後悔の話ばかりしていたという。
 いくら同行の人達に重ね重ね、いざという時の助力をお願いしたとは言え、
 75歳の老人と小学生二人で、実距離にして150km以上の徒歩での逃避行。
 これは、今の私が考えてもとてつもなく無謀な事に思えてくる。
 けれどあの時期、あの状況ではあれしか選択肢はなかった。
 しかも、あの時期、とてつもなく無謀な事は、周りで幾らでも起こっていた。
 然し、私の両親は、とてつもなく無謀な事をそのまま見過ごすことは出来なかった。
 実態はこうだ。
  父は、この嵐では船は出帆出来なかったのではと考えて秘かに港を見にきた。
 船はまだそこに停っていた。
 急ぎ取って返し、そのことを母に告げる。
 母は日ごろから用意してあった脱出に必要な品々をリュックサックに詰めて待っていた。
 すぐさまリュックを背負い美智子を抱きかかえて、人に見つからぬよう気を配りながら港に辿りつき乗船。
 これには、両親の並々ならぬ覚悟があった。
 父は母が脱出したことが知れた際に北朝鮮当局から罰せられるであろうことを。
 母は途中で見つかって連れ戻され罰せられ、ひどい目に遭うかもしれないことを。
  それにしても私達は、幸運に恵まれていたと、今にして思う。
  しけが,ちょうど良いタイミングで鎮南浦港を通ってくれた。
 通るのがもう少し早ければ、わたしたちは乗船していなかっただろうし、
 もっと遅ければ船は出帆してしまっていた筈だから。
 午後からしけがひどくなった為、船は出帆を見合わせ一晩停泊していた。
 翌日も朝のうちはまだ雨がふっていた為、当局の監視も十分ではなかった。
 そのおかげで母が夜明け前の薄闇に紛れて、脱出して来る事が出来たのである。
 

  鎮南浦港出帆、徒歩逃避行のはじまり
  母が乗船して程なく約丸一日遅れで船は出帆し夕刻には、対岸の村に着いた。
 近くに学校のような建物数棟と運動場のような広場があった。
 少しあとに着いたもう一隻の人達と一緒に、北朝鮮の保安署員によってその広場に誘導された。
  そこには我々二隻の乗船者以外にも大勢の日本人が集められていた。
 これから荷物検査と、員数検査が行われるのだという。
 母が一人増えていることが判ったら大変なので、すばしっこかった私が急いで近くの大きな木に登って身を隠した。
 検査は無事おわった。
  そのあと、その広場で炊飯をし食事を終えるとその夜はそこで野宿となった。
  それが、その後約30日に及ぶ野宿生活の初日であった。
  翌朝、食事を終えると直ぐに、60数名から成る我々の班の38度線に向けての逃避行が始まった。
 うちの家族は私と母と祖母が分に応じた重さ(というより少し重め)のリュックサックを背負い、妹(恭子)が美智子を負ぶった。
  我々の班は列の先頭に5〜6人の引率者グループ、次が2〜3人の幼児を連れた若い女性の集団、
 その後にうちの家族のような老人子供その母親といった弱者の集団、
 最後尾が大人の男性、おおよそこの様な編成であった。
  列は歩くのが遅い人たちに合わせてゆっくりと進んだ。
 はじめの数日は、ほぼまとまっていたが、日がたつにつれ段々縦長の列になっていった。
 私としては、祖母と妹に一番気を使った。
 一行は町や大きな村落を避けて、目立たぬように丘陵の山肌を縫う間道を選んで進んだ。
 道は、雨の時に馬車や牛車がぬかるみに残したわだちが固まった
 彫りの深い凹凸のためにとても歩きにくいところがあったり、
 両側が畑や田んぼであぜ道を少し広くしたような一本道であったり、
 けっこうきつい登り坂が続いたりした。
 森や林の中の小径や川沿いの道を歩くこともあった。
 むしろそういった道の方が歩きやすかった様な記憶がある。
 もちろん時々、小休止や昼食のための時間はきちんととっていた。
 ただ昼食は、林の中や河原での事が多かった。
 朝鮮人の暴徒に襲われるのを警戒しての行動だったのではないかと思った。
 暴徒には30日ほどの道中で、二回襲われた。
 一度目は部落のはずれを通り過ぎようとしている時、一行の列の後方から、
 棍棒をもった朝鮮人の男、3〜4人が襲ってきた。
 女性や子供たちが悲鳴をあげながら逃げ惑った。
 私は祖母と妹と母の前に立ちはだかる様にして身構えたが手にはなにも持っていなかった。
 あのまま殴り掛かられていたら、まず怪我は免れなかったと思うが、
 すぐさま引率者グループの人や男の人達が制止に割って入り、
 しばらくもめていたが、程なくくして引き下がっていった。
  恐らくは物か金目当ての襲撃で、リーダーの人が幾らかお金を渡して引き下がらせたのではないかとおもう。
 もう一回は部落にさしかかった所で列の前の方からやはり3〜4人の若者が襲ってきた。
 今度は引率者グループの人達が大きく手を挙げて前に出て、早めに制止した。
 それでもその部落を通り過ぎる迄はまた襲われるのではないかという怖さが付きまとった。
  私としてはこの脱出行に際して心中秘か覚悟を決めていた。
 10歳だけれども一家のなかで男の子は僕一人だ。僕は日本男児だ。
 一家全員を何が何でも僕が守り抜いて無事日本に帰り着くのだ。
 そういった思いがいつしか心の奥底で芽生え、段々強く確固たるものになっていった。
  我々の行動は来る日も来る日も、野宿の連続で、
 なるべく夜露が凌げるよう林やあまり深くない森を宿営場所に選んだ。
 橋の下で泊まったこともあった。
  生まれてまだ4ヶ月足らずの美智子に夜露がかからないようにと、
 私が木の枝を4本折ってきて、地面に刺し、
 持参してきた油紙の四隅を枝でささえて首から上を覆うように工夫をした。
  鎮南浦の対岸の村の広場を出発してから毎日毎日ひたすら歩き続け夜になると野宿。
 食事は飯盒で炊いたご飯、おかずは、始めのころは缶詰だったがそれも食べつくし、
 その後は佃煮か、たくあん位しか口にできなくなった。
 お米もそろそろ無くなりはじめた。それもそのはず、
 歩き始めてから30日に何なんとしていた。
 最後の2日位は干飯や炒り豆に水だけでしのいだ。
 それでも38度線がま近である事が知らされていたのでもう少しの辛抱だ、
 と思い頑張る事ができたのである。
 
  38度線越え直前
  いよいよ38度線を越える日がきた。地名はしらないが町らしき所にさしかかった。
 当然ながら町には入らず迂回して町はずれの小学校らしき建物と運動場が
 見下ろせる小高い丘に、あまり物音を立てないようにして登った。
 その丘全体が木々に覆われていて我々の集団が身を隠すのに適していた。
 着いたのは3時か4時ころだったような気がする。
 そこで、班のリーダーから、いよいよ今夜38度線を越える事。
 皆、必要最小限のものしか持って来ていないのは分かっているが
 出来るだけ荷物を軽くする事。
 9時出発の予定なので、それまでに食事を終えておくこと。
 それまでは休憩、できれば仮眠を取ることがのぞましい等の注意事項の説明があった。
  着の身着のままの状態で、いったい何が捨てられるのか、一家全員で知恵を出し合って
 少しは荷を軽くしたが、何を捨てたか、はっきりした記憶がない。
 たしか飯盒とか残り少ないお米とか干飯、炒り豆なんかを捨てたのかもしれない。
 と云うのも、無事に38度線を越えることが最優先課題であり、南朝鮮迄行けばもはや、
 心配な事は無いと云う気持ちが皆の心の大半を占めていたからである。
 しかしこの事は後で後悔することになるのだが・・・。
 
38度線越え1
38度線越え2

  38度線・国境越え
  夜の9時。いよいよ38度線越えの出発の時が来た。
 リーダーから最後の命令!絶対に前の人と離れないこと。
 列を乱さないこと。絶対声を出さないこと。
  うちの家族は私・祖母・美智子を負ぶった恭子・母の順に隊列を組んだ。
 そして道中親しくなった、Tさん一家五人(両親と小学生三人)と話し合って、
 九人がお互いロープで体を結びあって、行動することにした。
 他に、体を結びあった家族は見かけなかったがロープにつかまって歩く家族は何組か見かけた。
 皆、命がけの国境越えに際しそれぞれ必死で工夫をしていたのだ。
 Tさん家族にはうちの前を行ってもらう事にした。
 Tさん一家はお母さん子供(小さい順に)三人お父さんの順だったので、
 私がTさんの後ろに続く隊列となった。
 私は、Tさんに遅れないようにしながらも、すぐ後ろの祖母に最大の注意と気配りをしながら、
 むしろ引っ張り上げるくらいの気持ちで進んだ。
 真っ暗闇の中、山あいの小道や何日か前昼間に歩いたような田畑の
 やや広めのあぜ道を祖母に気を配りながら歩いた。
 何せ真っ暗なので、自分だけでなく祖母も後の二人も、つまずいたり
 あぜ道から転げ落ちたりしはしないかと、神経の使い様は並のものではなかった。
  そのうちに我々の隊列が、道のすぐ横に数軒並んでいる朝鮮人の家の前にさしかかった。
 板戸の間から光が漏れていて、その向こうからひそひそ声が聞こえてくるのが何とも薄気味悪かった。
 そこを通り過ぎるとまた田畑の中の小道に出た。
 道は林の中に入り、そこを過ぎると、急な登り坂、続いて下り坂、そして石ころばかりのところにでた。
 そのまま進んで行くと列は水の中へと入っていった。
 前の人に引っ張られるように歩くうちに水は足首から段々と膝の上位まであがって来た。
 川の流れの中にじゃぶじゃぶと進んで行っていることに気が付いた。
 足の下は石ころだらけで滑りそうになるし、水はどんどん上がって来るし、
 これはひどい事になって来たと、祖母が転んだりしないように手で支えながら前進を続けた。
 その時、左後方の丘の上からパンパンパンと云う銃声が聴こえてきた。
 ソ連兵たちが我々の班を目がけて銃を撃ってきたのだ。
 班の前方から悲鳴が上がると同時に、バシャバシャと水の中を前方に逃げようとする音が伝わってきた。
 リーダー達が必死になって落ち着け、声をだすな、水の中を走ってはだめだ、
 などと低いがしっかりした声で前後に伝えて回り、隊列がばらばらになるのを制止しようと頑張っていた。
 私も必死になって前の人に遅れないように、
 更には祖母を抱きかかえる様にして遮二無二前へ前へと歩いた。
 気が付くといつの間にか銃声は止んでおり、水も段々浅くなって石ころだらけの河原に出た。
  その頃には声を出す人は一人もなく、また撃たれるのではと云う怖さがあるので皆黙々と、
 ひたすら前へ前へとあるいた。
 土手を超えて草原の小道を暫く行くとまた土手にでて石ころの多い河原を歩くと川があり、
 またじゃぶじゃぶと川の流れに踏み込んでいった。
 今度は銃声は聞こえなかったが、水かさが段々増してきて腰の辺りまで浸かってきた。
 川底の石は滑るし,体ごと流れに持っていかれそうになるし、で前に進むのに相当労力をつかった。
 祖母のことも心配だがそれ以上に美智子を背負っている妹のことが一番気にかかった。
 私よりも背は低いのだから、水かさがもっと増して、赤ん坊もろ共おぼれたり、
 流されたりしたら大変だと思うと体の前後で綱を握っている手に自然と力が入った。
  前の人との間の綱はぴんと張った状態になっていたが、
 そちらの方は気にせずに私・祖母・妹・母それぞれの間隔をずっと詰める事にした。
 結果として結束力がより強まり四人が一体となって歩く感じになった。
 程なく、川も少しずつ浅くなって石ころだらけの河原に上がった。
 わが家五人は川で溺れることなく無事に対岸に渡り着いたのだ。
  それにつけてもわが家五人と前の一家五人をつないだ綱の何と頼りがいのあったことか。
 これこそが真さに「命綱」だと思った。
  隊列は、土手を越えて草原の小道をどんどん進んでいる時に前の方から伝令が来て
 さっき渡った川が38度線国境の目印で、すでに南朝鮮に入っていることを告げてくれた。
 嬉しいと云うよりもやっと北朝鮮を脱出できたのだ、というホットした気持ちの方が強かった。
 それからものの30分位歩いたところで、リーダーから小休止の声がかかった。
  そこはいつの間にか道が広くなっていて、荷馬車が楽に通れる位の道幅だった。
 我々は、もう大丈夫だということで、10人をつないで命を守ってくれた綱をほどいた。
 あれだけ結束を強めるのに役立ってくれた命綱なのに、
 ほどいてみると、何となく解放されたよう気分になった。

  独り置いてきぼり
  ふと見ると道の左側が道路から数十センチ位、
 小高くなっていてその先は畑が続いているようだった。
 私は荷物が水に濡れてかなり重くなっていたので、
 荷物を背負ったまま少し高くなっているところへ荷を預けてそこに座り込んだ。
 そしてそのままうとうとと眠ってしまった。
 
 どのくらい時が経ったのだろうか。目が覚めて周りを見たら誰もいなくなっていた。
 真っ暗な道端に一人置いてきぼりになっていたのだ。
  行くてを見ても人の影もなく、声も聞こえない。
 歩く方向だけは分かっていたので、そこから必死に歩き出した。
 もう走る力は無かったので、急ぎ足で歩くしか無かった。
  所どころ木が茂っているようなところに差し掛かると、何だかお化けのように見えて来たり、
 茂みから何かが飛び出してくるのではと、思ったりしてとても怖かった。
  周りがお化けだらけに見えて、段々と怖さが増してきた。
 そのうちに道が二手に分かれている所にさしかかった。

 道幅は同じくらい、右か左か、一瞬迷ったが思い切って右側の道を進んだ。
 すこし行くと前の方に人影らしきものがおぼろげに見えてきた。
 二人で小声で話し合っている声も聞こえてきた。
 そっと近付いてみると、日本語で話していたので思い切って近寄ると老夫婦(といっても祖母よりずっと若い感じ)
 がなにかに足を取られて立ち往生している感じだった。
 思わず「おじさん・おばさん!この道でいいのですか」と尋ねると、「あ!日本人の坊やだね。
 この道は違ってるようだよ、さっきの別れ道を左に行くのが正しい方角らしいよ」と云う答え。
 「それでは一緒に行きましょうよ」と言ったところ、「自分達は足が遅いから、
 坊や一人で別れ道の所まで戻って左側の道をどんどん進みなさい」といわれた。
 老夫婦二人残して、大丈夫かなと一瞬思ったが早く本隊に追いつかなければと云う思いと、
 何よりも祖母や母が心配しているだろうから、早く元気な顔を見せなければ、
 という気持の方が強かったので、「頑張って、出来るだけ早く本隊に合流してくださいね」
 と言い残して、別れ道の所まで急ぎ戻り、左の道を一所懸命あるいた。
 相変らず真っ暗闇の道だったが暫く行くと、前の方から人影らしきものが近着いて来るのを感じた。
 何者か判らないので、道の端に身を寄せて伏せる様にして近着く影を待ち受けた。

 二人連れで日本語で小声で話しているのが聞こえたので、起き上がって、「おじさん!」といって二人の前にとび出た。
 二人は、一瞬驚いた様子だったがすぐに「坊や大丈夫か」といいながら手を取ってくれた。
 そこで手短に、小休止の際に眠ってしまって一人取り残されたこと、
 別れ道を右に行ってしまったこと、その先で老夫婦が立ち往生していた事を話した。
 二人は、リーダーグループの若い人たちで、
 我々の班の落後者たちを探して救助する為に戻ってきてくれたのだった。
 老夫婦のことも、自分たちが助けるから心配しなくていいという事、この道を真っ直ぐ行けばやがて灯が見えてくる、
 そこが今夜の宿泊場所の部落だから、頑張って歩きなさいと励ましてくれ。
 二人は、落後者を救助する為先ほど越えた国境の方へと向かっていった。

  私はもう一度,気持を奮い立たせて、灯りのともる部落を目指して歩きはじめた。
 暗闇の道をしばらく歩いた。ところが、歩いても歩いても灯りどころか森の出口すらみえてこない。
 またまた周りの木々がお化けの様に見えてきたり、さっき出会った老夫婦やお兄さん達、
 あれは狐に化かされたのではないかなどといった思いが募ってきて、だんだん怖さが増してきた。
 それでも、ぼくは男の子だ、俺は日本男児だ、と心の中で叫びながらひたすら歩いた。
 そのうちに遥か前方に灯りらしきものがポツリとみえてきた。
 いつの間にか森を抜け出していたのだ。
  それでもその灯りが、いくら歩いても近着くどころか段々と遠ざかっていく、
 また怖くなってきた。これは狐にだまされているに違いないと思えてきた。
  こうなると日本男児も形無しだが、決して泣きはしなかったし、涙など流しはしなかった。
 そうしているうちに灯りが止まって見えた。
 やがてその灯りがだんだん大きくなってきて,それに近ついているのが実感できるようになった。
 
  部落到着、馬小屋に泊まる
  朝鮮人の部落が見えてきた。20軒余りの小さな部落だったが
 どの家にも明るくあたたかい燈が灯っていた。
 我々の班の人達は、各家に分散して泊めてもらっている様だった。
 一軒ずつ祖母たちわが家族を探して回ったが見つからなかった。
 そのうち、私自身疲れているし眠くなって来たので、
 今夜自分が泊めてもらう所を確保しなければという事に思い至った。
 二軒では既に満員だと断られた。

 三軒目でやっと、隣が馬小屋でその中には藁が沢山積んであるから
 それに包まって寝れば暖かいよ、と言ってくれたのでさっそくその馬小屋に向かった。
 木の開き戸をあけてなかに入ると、なんとそこに家族全員がいた。
 私の姿が見つからないのでかなり心配していた様だが、まさか私が眠ってしまって、
 一人置いてきぼりになっていたとは考えてもいなかった。
 命綱が解かれてから元気に隊列の先頭を歩いているものとばかり思っていたようだ。
 というのもここまでの道中でも、あまり危険でなさそうな時、
 つまり祖母や妹達をさほど気使う必要のない平穏な日も何日かあって、
 そういった時には列の先頭グループに入って歩いていたのだった。
  その夜、食事はどうしたのかは全く記憶にない。
 すぐに藁に包まれて寝入ってしまった。
  ずっと後になって、中学生のころ、聖書のキリスト誕生の場面を記した箇所に
 初めて出会った時に、この馬小屋でのことをまざまざと思い出した。
 馬小屋のあの独特の匂い、藁の匂い、わらの暖かさ。
 30日に及ぶ野宿生活ばかりの脱出行からやっと救ってくれたあの馬小屋。
 ほんのりとした暖かさを伴って、その記憶は今でも鮮明によみがえってくる。
 
  開城のテント村へ
  さて我々60余名の一隊は翌日午近くに、部落からさほど遠くない鉄道の駅前広場に集まった。
 米軍のトラックが迎えに来て、北から脱出して来た日本人のために
 設けられた収容施設に運んでくれるのだという。
 もう歩かなくてもいいのだと思うと心底ホットした気分になった。
 トラックを待つ間に、駅を覗いてみたが人は一人も居なかった。
 駅前の広場以外は周りは田畑ばかりで田舎の小さな駅舎があるに過ぎなかったのだが、
 なぜか私の眼に焼きついているのは複線の線路が駅舎の少し北で途切れていて、
 二本の線路の北端に枕木で作った大きな  印が立てられていた事である。
 ここから先は,列車も通れないという目印で、
 朝鮮半島が南北に分断されたことを示す象徴的な  印だと思った。
  程なくして米軍の、車体が濃い緑色の大型トラックが5〜6台大きな音を立てて到着した。
 それぞれのトラックから2人ずつ若い米軍の兵士が降りてきた。
  私は始めは少し警戒していたが、どの兵士もにこにこしていて、我々に対して親切であった。
 2人して荷物をトラックの荷台に積んでくれたり、祖母を抱きかかえて荷台に乗せて呉れたりした。
 ソ連兵とは全く違った、もっと言うならば真逆の印象であった。
 トラックはかなりのスピードで突っ走った。
 私と祖母は荷台の最後尾だったので、でこぼこ道で車がはずむ度に振り落とされはしないかと
 必死になって祖母を支えると同時に自分自身も荷台の端をしっかりと握りしめて身体を支えた。
 そんな状況でかなりの時間トラックの荷台に乗って運ばれた。
  どれ位乗っていたのか、はっきり憶えていないが、昼を少し過ぎた頃に駅前の広場を出て、
 着いた時は夕暮れまじかだった様に記憶している。
 
  開城テント村での日々
  着いたところは、北朝鮮を脱出して来た日本人を一時的に収容するための施設で,
 開城市内に米軍が設営し、旧軍隊あがりの日本人が運営していた。
 そこは一大テント村だった。大小さまざまなテントが50張り位立ち並んでいた。
 中には病院テントや運営者たちの本部テントもあった。
 テント村に着くと、責任者からテント村で暫く生活するうえでの注意事項の訓示があり
 (結構長かったが内容は全く覚えていない)
 そのあと病院テント前でDDTという真っ白な粉末の薬剤を頭からふりかけられた。
 それからやっと我々の班に割り当てられたテントに案内された。
 テントは我が班60数名が入って皆がようやく足を伸ばせる位の広さだった。
 少し窮屈ではあったが、野宿に比べれば遥かに過ごしやすい環境だった。
 もっと大きなテントでも、120人位の人がすし詰め状態で過ごしている所もあり、
 それに比べれば贅沢を言ってはいけないと思った。
 食事は大きな釜でゆでたとうもろこしが一人一日2回だけ、
 それも小さなアルマイト製のお椀に一杯ずつで、とてもひもじかった。
 38度線を越えの直前、米や炒り豆などの食料を
 捨ててこなければ良かったと何度も後悔した。
  ただテント村の片隅を小川が流れており、
 そこが洗濯場になっていて母が毎日おむつの洗濯に行っていたが、
 そこに時々朝鮮人のオモニがお餅や焼き芋を売りにきていた。
 正式には食べ物の売買は禁止されていた様で、
 監視の目を盗んで囲いの鉄条網の隙間からやり取りをしていた。
 物の値段は覚えていないが、日本のお金がまだ通用していたのと、
 大して持っていないお金で、買える範囲だったのだと思う。
 そのお陰で時々は空腹をしのいだ。
 それよりもお餅は母と赤ん坊の美智子にとって強力な味方だった。
 母のお乳は脱出行の途上でもよく出ていたらしいのだが、
 お餅を食べると母乳が良く出ることを初めて知った。
  鎮南浦を出て対岸の村から歩き始めて約30日。
 その間、一度も雨に降られた事が無かったのは、
 今にして思えば奇跡としか言い表せないくらい幸運な事であった。
 もし雨が降っていたら、母や祖母や妹たちはどうなっていただろうと思うと、
 今更ながらぞっとしてしまうとしか言い表しようがない。
  その雨が開城のテント村に入ってから、結構降るようになった。
 雨が降ると洗濯に行けない、おむつが乾かない、お餅が買えない、
 あまり良い事はなかったがテントの中にいさえすれば、雨に濡れずに済むのだから、
 道中で降られた場合と比べれば天国にいるようなものだと思った。
 
  開城から仁川へ
  3週間くらい開城のテント村に居ていよいよ日本からの引き揚げ船が
 入る港のある仁川へ向かうことになった。
 テント村から開城駅までは徒歩での移動だったが、
 約2時間位の歩きは30日間歩き通してきた我々にとっては、全く物の数ではなかった。
  開城駅からは有がい貨車に乗った。
 我われの班以外の人達も大勢いた。
 何両編成だったかはっきりした記憶がないが、
 一両にかなりの人数が詰め込まれてとても窮屈だったのを憶えている。
 列車はかなり走ってからとある駅に着いた。
  到着後も貨車の扉も開けてもらえず,しばらく停車したままだった。
 貨車には天井近くに小さな小窓があった。
 身軽だった私は、小窓の所へよじ登りそこから外を見ると
 視界の端に京城の文字が辛うじてみえた。
 そこで初めて京城駅に停車していることが分かった。
 皆に京城駅に停車中であることを教えた。
 車中の人達から、もう京城迄きているのだという安堵の声が聞かれた。
 小窓から駅前の広場が見通せた。
 すでに夜になっていたので、その辺りは光があふれており、多くの車が行き交っていた。
 東京は空襲に備えて暗かったし、鎮南浦も明るい街ではなかった。
 道中は真っ暗闇、開城のテント村も明るいところでは、なかった。
  従って、私にとっては小窓の限られた視界の範囲とは言え
 数年ぶりに見た光あふれる平和な都会の光景であった。
  列車はさらに1時間位経ってからやっと動き出した。
 それから3時間くらい、狭い貨車の中で膝を抱えて、
 うとうとしているうちに、ようやく仁川駅に着いた。
 駅から仁川港の収容所はすぐ近くで、到着するや、
 またDDTを頭からふりかけられた。
 今度はテントではなく木造バラックの収容施設だった。
 バラック小屋が数棟あり、そのうちの一棟に入った。
 体育館位の広さで板張りの床にむしろが敷かれていた。
  食事はとうもろこし主体の雑炊、小さなアルマイト製のお椀に一人一杯ずつ一日三回、
 開城のテント村よりはましだったがそれでも空腹は免れなかった。
  バラック小屋以外に運動場のような広場があり、全体が板塀で囲まれていた。
 何故か広場の片隅に材木が山と積んであり、材木の山から板塀に隔てられたその先は
 広い道路が通っていてひっきりなしに米軍のトラックが行き交っていた。
  他にすることもないので、年格好の似通った子供達と一緒に
 材木の山に上って行き交うトラックを眺めて過ごした。
 時おり米兵が、チョコレートやチュウインガムの入った袋を投げて寄越した。
 始めのうちは用心して手を付けなかったが、母に相談すると米兵の様子からして
 大丈夫ではないかという事になり、ほかの子供達と分け合ってたべた。
 
引き揚げ船

  仁川港から引き揚げ船へ
  この収容所は日本からの引き揚げ船がくるのを待つだけの施設で、
 3日目の正午前に、1時間以内に埠頭に集まるようにとの命令が出た。
 その収容所にいた日本人全員が、かく棟からぞろぞろでてきて、
 班ごとに埠頭に並ばされた。
  岸壁に大きな船は見当たらなかったので不思議に思っていると、
 仁川港は、干満の差がおおきくて船が横着け出来ないので沖合に停泊している。
 そこまで小船で運んでくれる、という説明があった。
  米水兵が操縦する多数の小型上陸用舟艇に分乗して
 沖合の日本船に向かうことになった。
 私達家族の番がきた。祖母、妹たち、母を先にのせて私は最後に乗り込んだ。
 ぜんぶで20人くらいしか乗れない小型艇だった。
 上陸用舟艇は,前方が高くなって水面から浮いており船尾は、
 海面すれすれの状態で前進する、それもかなりのスピード突っ走るものだから
 最後尾に乗った私は、海に振り落とされやしないかと内心気が気ではなかった。
 その内に大きな船が見えてきた。
 
  船尾にはためく「日の丸」
  近つくと船尾に大きな日の丸がはためいているのが目にはいってきて思わず涙が出てきた。
 大人も子供もみんな泣いていた。
 久しぶりに見る日章旗、祖国の旗「日の丸」、国破れ、祖国以外の地でつらい生活を
 強いられた我々日本人にとって「日の丸」ほど力ずけられ、心慰められるものはなかった。
  ああ、これでやっと日本に帰れる、いやこの船は日本そのものだと思った。
  乗船すると我々の班は、船首に一番近くの船倉を木材で三段に仕切った上段の一区画を割り当てられた。
 すし詰めだったが足は伸ばせて、横になれた。
  北朝鮮脱出日本人4000人が無事乗船を完了したとのしらせがあった。
 
  仁川港から佐世保へ
  船は午後9時頃仁川港を出航し佐世保港を目指して順調に進んでいった。
  食事は、こうりゃんに少し米の入った主食がお椀に一杯一人一日2回、
 おかずは汁物、つくだ煮、たくあん。テント村よりは遥かにましだと思った。
  ただ,航路の中ほどで、生まれて初めての哀しい出来事に二度出逢った。
  我々の班ではなかったのだが、乗船者の中から、二人の犠牲者がでてしまったのだ。
 お一人は30才過ぎの女性。この方はテント村から開城駅へ徒歩で移動する時、
 一人の男性がその方の奥様と思われる女性を背負子で背負って歩いているのが目に留まって、
 病気の奥様を何とか日本へ連れて帰ろうとして頑張っておられるのだと思い、
 その姿が目に焼き付いていたのだが、その奥様だという事がなんとなく伝わってきたので、
 ご主人の心境を思うと、なんともたまらない気持がこみ上げてきた。
 もう一人は、2才の男の子で栄養失調で亡くなったのだった。
 別々に,暗い船倉でお経をあげそのあと、水葬に付すという
 なんとも侘しくも哀しいお弔いに出くわしてしまった。
 水葬とは、ご遺体を布で包んでロープで海面までそっと降ろし、海に流す、
 こういう事なのだが、何でもう一日待って日本に帰り着いてから祖国の土に
 埋めてあげられなっかたのか、種々事情があったにせよ、今もって納得がいかない。
 その時の周囲の説明は、海上でのお弔いのしきたりだからといわれたのだが。
  それにしてもなんで10才の子供の私が、
 二度もあの哀しい水葬に立ち会うことになったのかも不思議な話なのだ。
 母の代わりに参列した訳でもないし、物見高くて行った筈もないし、
 偶然通りかかった訳でもないし、今になっていくら考えても不可解な事であった。
 
  日本の陸地がみえた
  さて、朝早く甲板に出て進路の先の方を見ていると、
 視界の果ての海の上に黒い雲のようなものが見えてきた。
 それは段々大きくなり、やがて形もはっきりしてきた。
 近くにいた人が島だと叫んだ。
 少しおいて別の人がいやあれは陸地だと叫んだ。
 陸地がぐんぐん近ずいてきた。
 緑に覆われた美しい祖国日本に遂に帰ってきたのだ。
 船は大村湾に入り、引き揚げ船がばかりが数隻停泊している港に着いた。
 21年10月10日の午前中のことであった。
 
  港で上陸禁止
  港についてからも、直ちに上陸が許された訳ではない。検疫やDDTの散布が行われた。
 肛門に箸くらいの太さのガラスの棒を差し込まれて便を採られる検便が一番嫌だった。
 1週間くらい経ったころ、我々の班の2人の男性が検査で、保菌者の疑いありと判定されて上陸し、
 他の乗船者は2週間の上陸禁止を命ぜられた。
 その後は度々検便が行われた。
  目の前に祖国の土を見ながら上陸させてもらえないもどかしさは、今でも忘れられない。
 緑だった周りの山々も徐々に色付きはじめた。
 10月も末になると辺り一帯が見事な紅葉に彩られた。
 
  やっと祖国の大地を踏んだ
  11月1日、「明日上陸」の知らせがやっと出た。船内、大歓声に沸いた。
  11月2日、上陸開始。引き揚げ者専用岸壁。久しぶりに踏みしめた祖国の土だった。
 帰還者用の救護施設までのわずかな道の両側に係の人や婦人会の人達が並んで、
 「長い間本当にご苦労様でした」とか「お疲れさまでした」と声を掛けて呉れた。
 その直後、それまで元気に歩いていた祖母が
 何かにつまずいて道の端のすこし低くなった所に転げ落ちた。
 私はすぐさま飛んで行って祖母を助け起こした。
 幸い足首を少し捻った程度で大事に至らずに済んでほっとした。
  あの厳しい北朝鮮の山野、国境越えの二つの川の流れ、
 その間一度たりとも弱音も吐かず転んだり、よろけたりも、
 しなかった祖母が祖国の土を踏んだ途端にほっとして、少し気が緩んだに違いない。
 祖母は気丈な人だったので私達に出来るだけ気を使わせまいとして、
 想像以上に気を張り詰めていたのだと思った。
  荷物検査、コレラと発疹チフスやその他の予防注射、
 DDT散布を受けてその夜は、救護施設で泊まった。
 その間に入国手続や紙幣の交換等々帰国者の為の諸手続きが
 あったはずだが、それらは全て母と祖母でおこなった。
 
  佐世保から松阪へ
  翌朝、最寄りの南風崎駅から列車(久々の客車)に乗り両親の故郷三重県松阪市に向かった。
 24時間以上掛かって松阪駅についた。
 その足で、当てにしていた親戚を訪ねたが、家も狭く到底我々を受け入れてくれる余裕などなかった。
 更に、両親の親戚を尋ね歩いたが、どこも無理だった。
 最終的には、父の中学時代の野球部の仲間で、市内で米麹を製造・販売している人のこと、
 その人と父がとても仲が良かったことを母が思い出し、
 そこへ行ってお願いすると、その家の離れの八畳間を貸して呉れる事になった。
 我々一家5人、やっと落ち着く所に恵まれたのだった。
 時は、昭和21年11月3日であった。
  良くぞこの日まで我が家5人が病気もせず、怪我もなく、
 あの苛酷な日々を耐えて祖国の土を無事に踏むことが出来たものだおもう。
 今でも、そのことを思い出すと言葉に表せないくらい神への感謝の気持ちで一杯になる。
 (但しこの時点では父一人北朝鮮に抑留されており、父の帰還までにはまだ様々な
  苦労が待ち受けているのだが其のことはまた別の機会に述べることにする。)
 
                                              以上

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